それは、ある夏の夜のことだった。
私の住む町は、千葉の郊外に広がる静かな住宅地だ。駅から少し離れた場所にあり、夜になると人通りも少なく、街灯の明かりだけが頼りになるような場所だった。あの頃、私は大学を卒業して地元に戻り、親戚が経営する小さな工場で働き始めたばかりだった。仕事は慣れないながらも、それなりに充実していて、毎日のように残業で遅くなることも多かった。
その日も、夜の10時を過ぎていたと思う。工場を出て、家までの道を歩いていた。駅から遠い分、家までは一本道の細い路地を抜ける必要があった。両側には古い木造の家が並び、ところどころに空き家もあるような寂れた通りだ。普段なら気にしないのだが、その夜は妙に空気が重く感じられた。風がないのに、どこかで木の葉が擦れるような音が聞こえてくる。少し気持ちが悪いな、と思いながら歩みを早めた。
すると、後ろから足音が聞こえてきた。
最初は気にも留めなかった。誰かが同じ道を歩いているだけだろうと思ったのだ。だが、その足音は妙に一定で、私の歩調にぴったりと合っているようだった。私が早めれば早まり、私が立ち止まれば止まる。振り返ってみても、街灯の薄暗い光の下に人影は見えない。それでも足音は確かに聞こえるのだ。カツ、カツ、カツ、と軽い靴音が夜の静寂を切り裂く。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせて歩き続けたが、心臓の鼓動が速くなるのが抑えられなかった。家まであと少し。あと数分我慢すればいい。そう思って路地の角を曲がった瞬間、足音が急に近くなった気がした。まるで後ろに誰かが立っているかのように、背中に冷たいものが這う感覚がした。恐る恐る振り返ると、そこには誰もいない。ただ、街灯の光が一瞬だけチラついたように見えた。
家に着いた時、私は汗だくだった。鍵を開ける手が震え、ドアを閉めた瞬間、ようやく安堵の息をついた。母がリビングでテレビを見ていて、「遅かったね」と声をかけてきたが、私は何も言わず部屋に上がった。あの足音が頭から離れなかった。
翌日、工場で同僚にその話を何気なくしてみた。すると、年配の先輩が妙な顔をしてこう言った。
「あの路地か。あそこは昔から変な噂があるんだよ」
先輩の話によると、私が通った路地は、昔、若い女性が何者かに襲われて亡くなった場所だという。事件自体は解決したらしいが、それ以来、夜になるとその辺りで足音を聞く人がいるというのだ。「特に夏の夜がひどいらしいよ」と先輩は笑いもののように話したが、私には笑えなかった。あの足音が、ただの偶然や気のせいではないかもしれないと思ったからだ。
それからしばらくは、残業を避けて明るいうちに帰るようにしていた。だが、ある日、どうしても遅くなってしまった。仕方なくあの路地を通ることにしたのだ。時計はすでに11時を回っていて、周囲はひっそりと静まり返っていた。私はイヤホンを耳に突っ込み、音楽で気を紛らわせようとした。だが、音量を上げても、あの足音が聞こえてくる気がした。カツ、カツ、カツ。イヤホンを外すと、確かに聞こえる。今度ははっきりと、私のすぐ後ろからだ。
走った。息が切れるのも構わず、全力で家に向かって走った。足音も追いかけてくるようだった。家の玄関に飛び込み、ドアを閉めた瞬間、足音がピタリと止んだ。振り返る勇気はなかった。ただ、ドアの小窓から外を見ると、街灯の下に何か黒い影が立っているように見えた。目を凝らすと、それは消えていたが、私は確信していた。あれは人間じゃない、と。
それから数日後、母が近所の噂話を聞いてきた。「あの路地の空き家で、最近、誰もいないはずなのに明かりがついてるって人が見たらしいよ」。私は背筋が凍った。あの路地の空き家は、私が足音を聞いた場所のすぐ近くだったのだ。
ある夜、私は意を決してその真相を探ろうとした。懐中電灯と携帯電話を手に、あの路地に向かった。深夜1時過ぎ、周囲は静寂に包まれていた。空き家の前に立つと、確かに窓から薄っすらと明かりが漏れている。恐る恐る近づき、窓を覗き込んだ。そこには、古びた畳の部屋に小さな電灯が点いているだけだった。だが、その光が妙に揺れている。風もないのに、まるで誰かが動いているかのように。
その時、背後で足音がした。
カツ、カツ、カツ。
振り返る間もなく、私は逃げ出した。懐中電灯の光が揺れながら路地を照らし、家に辿り着くまで一度も後ろを見なかった。家に着いた時、携帯電話を確認すると、知らない間に撮影された写真が一枚残っていた。そこには、暗い路地に立つ黒い人影が写っていた。顔は見えない。ただ、その影がこちらを見ているような気がして、私は携帯を放り投げた。
それ以来、私はあの路地を通るのをやめた。仕事も変え、別の町に引っ越した。だが、今でも夏の夜になると、あの足音が耳に蘇る。カツ、カツ、カツ。どこにいても、私を追いかけてくるような気がしてならないのだ。
誰かに話しても、笑いものかもしれない。だが、私にはあれが現実だった。あの路地に残された何かが、私を見つけたのだ。そして今でも、どこかで私を待っているのかもしれない。