岐阜県の山間部にひっそりと佇む、古びた小学校。そこはかつて多くの子供たちの笑い声で溢れていたが、今では廃校となり、静寂に包まれている。校舎の窓ガラスは割れ、木造の廊下は湿気で軋み、時折風が吹き抜けるたびに不気味な音を立てる。地元の者たちは、この場所に近づかないようにと口々に言い伝えていた。特に夜になると、誰もいないはずの校舎から奇妙な音が聞こえるという噂が絶えなかった。
ある夏の夜、好奇心旺盛な若者たちがその噂を確かめようと集まった。彼らは互いに励まし合いながら、懐中電灯を手に校舎へと足を踏み入れた。グループの中でも特に怖がりだった少年は、入り口で立ち尽くし、「やっぱりやめよう」と訴えたが、仲間たちに笑いものにされたくない一心で、渋々ついていくことにした。校舎の中は予想以上に暗く、懐中電灯の光が届く範囲は狭く、周囲は闇に飲み込まれていた。
最初はただの廃墟特有の静けさだった。だが、教室の一つに差し掛かった時、異変が起きた。誰もいないはずの教室の奥から、かすかな音が聞こえてきたのだ。トン、トン、トン。それはまるで誰かがゆっくりと歩いているような足音だった。グループの誰かが冗談で靴を鳴らしたのかと疑ったが、全員がその場で立ち止まり、互いの顔を見合わせていた。足音は徐々に近づき、教室のドアの向こう側でピタリと止まった。
「誰かいるのか?」とリーダー格の若者が声を張り上げたが、返事はない。代わりに、ドアの隙間から冷たい風が吹き込んできた。少年は震えながら「帰ろう」と呟いたが、他の仲間たちは好奇心を抑えきれず、ドアを開けることにした。ギィッと錆びた蝶番が悲鳴のような音を立て、ドアが開くと、そこには誰もいなかった。ただ、教室の黒板にチョークで乱雑に書かれた文字が目に入った。『ミテイル』。その瞬間、全員の背筋が凍りついた。
慌てて校舎を出ようとした時、再び足音が響き始めた。今度は一つではなく、複数の足音が校舎のあちこちから聞こえてくる。トン、トン、トン。カツ、カツ、カツ。まるで何かが彼らを追い詰めるように、音は次第に大きくなり、近づいてきた。少年は恐怖で足がすくみ、仲間の一人にしがみついたが、その仲間もまた青ざめていた。懐中電灯の光を頼りに出口を目指したが、長い廊下が果てしなく続くように感じられた。
やっとの思いで校門にたどり着いた時、一人が振り返って校舎を見た。すると、二階の窓にぼんやりとした人影が立っているのが見えた。暗闇の中で、その影はこちらをじっと見つめているようだった。人影は動かず、ただ静かに立っていたが、その視線には言いようのない重圧があった。グループは一目散に逃げ出し、二度とその場所には近づかなかった。
それから数日後、彼らの間で奇妙な噂が広まり始めた。あの夜以来、少年の夢に毎晩同じ光景が現れるというのだ。暗い教室、乱雑に書かれた『ミテイル』の文字、そして窓辺に立つ人影。目を覚ますたびに、耳元でかすかな足音が聞こえる気がして、眠ることが怖くなった。仲間たちもまた、日常の中で不思議な感覚に襲われるようになった。道を歩いていると、背後に誰かの気配を感じたり、夜中に家の外で足音が聞こえたりするのだ。
地元の古老にこの話を打ち明けたところ、驚くべき事実が明らかになった。その廃校にはかつて、夜の校舎を徘徊する霊の噂があったという。数十年前、ある教師が生徒たちを見回り中に事故で亡くなり、その後も校舎を守るかのように現れるのだと。古老は静かに付け加えた。「あそこに近づいた者は、見られていると感じるようになる。あれは警告だよ。もう二度と行かない方がいい」と。
それでも、好奇心を抑えきれなかった若者たちの運命は、変わらなかった。少年は次第に夢と現実の境界が曖昧になり、仲間たちもまた不可解な出来事に悩まされる日々が続いた。そしてある日、少年が忽然と姿を消した。仲間たちが彼を探しに行った先は、あの廃校だった。校舎の奥深くで彼を見つけた時、少年は放心状態で座り込み、ただ一言「見てる」と繰り返していた。その瞳は虚ろで、何か得体の知れないものを見つめているようだった。
以来、その廃校には新たな噂が加わった。夜な夜な響く足音と共に、窓辺に立つ人影が一人増えたという。そして、そこに足を踏み入れた者は、二度と元の自分には戻れないとも。校舎は今も静かに山間に佇み、何かを待ち続けているかのように、闇の中で息づいている。