蔵王の霧に消えた足跡

サスペンス

今から数年前、私が会社員として忙しい日々を送っていた頃の話だ。

秋も深まった10月の終わり、久しぶりに取れた連休を利用して、山形県の蔵王へ一人旅に出かけた。紅葉が見頃だと聞き、自然の中でリフレッシュしようと思ったのだ。宿は温泉街にある小さな旅館を予約し、初日は温泉に浸かり、地元の料理を楽しんだ。翌日は蔵王のお釜を見に行くつもりで、早めに床についた。

翌朝、目を覚ますと外は濃い霧に包まれていた。窓から見える景色は白くかすみ、遠くの山々は全く見えない。旅館の女将に尋ねると、「この時期はよく霧が出るけど、午後には晴れることもあるよ」とのことだった。私は少し迷ったが、せっかく来たのだからと、予定通りお釜を目指すことにした。

レンタカーを借りて山道を登り始めると、霧はさらに濃くなっていった。ヘッドライトをつけても視界は数メートル先までしか届かず、道の両側に広がる木々がぼんやりと影のように浮かぶだけ。カーブの多い山道を慎重に運転しながら、ようやくロープウェイ乗り場に近い駐車場にたどり着いた。

ところが、駐車場には私の車以外に一台も停まっていない。辺りはしんと静まり返り、霧のせいで音さえも吸い込まれるような感覚があった。ロープウェイもこの天候では運休しているらしく、案内板には「濃霧のため本日運休」と書かれていた。私はしばらく車内で待ってみたが、霧が晴れる気配は一向になく、仕方なく周辺を少し歩いてみることにした。

駐車場から少し離れたトレッキングコースの入り口に立ってみると、木々の間から微かな風が吹き抜け、霧がゆらゆらと動いている。足元には湿った土と落ち葉が敷き詰められ、歩くたびにくちゃっと音がした。私は軽い気持ちで少しだけ進んでみることにした。道は細く、両側は深い森に囲まれている。10分ほど歩いたところで、急に空気が冷たくなり、背筋に寒気が走った。

その瞬間、どこからか低い唸るような音が聞こえてきた。風の音かとも思ったが、風はほとんど吹いていない。耳を澄ますと、遠くから何かが地面を引きずるような音が微かに響いている。ざり、ざり、と不規則なリズムで、それはまるで何かが這うような音だった。

私は咄嗟に辺りを見回したが、霧が濃すぎて何も見えない。心臓がどくどくと鳴り始め、急にこの場にいるのが怖くなった。引き返そうと踵を返した瞬間、すぐ近くで枯れ枝が折れる音がした。バキッという鋭い音に、私は思わず息を呑んだ。振り返っても何も見えないが、確実に何かいる気がした。

足早に駐車場へ戻る途中、背後からまたあの引きずる音が聞こえてきた。今度はもっと近く、すぐ後ろにいるような距離だ。私は走り出したが、霧の中では方向感覚が狂い、道を外れて木の根に足を取られそうになった。慌てて立ち止まり、背後を振り返ると、霧の中にぼんやりと黒い影のようなものが動いているのが見えた。人の形ではない、異様に長い手足のようなシルエット。だが、次の瞬間には霧に溶けるように消えてしまった。

ようやく駐車場に戻り、車に飛び込んで鍵をかけたときには、全身が汗でびっしょりだった。エンジンをかけ、急いで山を下りる間も、バックミラーに何か映るのではないかと気が気じゃなかった。旅館に戻ると、女将にその話をすると、彼女の顔が一瞬固まった。「蔵王の山は昔から何かいるって話があるのさ。特に霧の濃い日は、出るってね」と、どこか遠い目をして呟いた。

その後も何度か山形を訪れる機会はあったが、あの霧の日のことはどうしても忘れられない。そして、今でも時折、夢の中であの引きずる音が聞こえることがある。ざり、ざり、と近づいてくる音が、私の眠りを不気味に掻き乱すのだ。

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