それは私がまだ大学に通っていた頃の話だ。
愛媛県のとある市街地に住む私は、大学の図書館でレポート作成に追われ、いつも帰りが遅くなっていた。特にその日は、提出期限が迫っていたこともあり、時計の針が午前0時を回るまで没頭していた。図書館を出ると、冷たい秋の風が首筋を撫で、街はすでに静まり返っていた。普段なら賑わう商店街も、人気はなく、街灯の明かりだけが頼りなく道を照らしていた。
私のアパートは商店街を抜けて、さらに細い路地をいくつか通り過ぎた先にあった。いつもなら気にせず歩く道だが、その夜はなぜか妙に暗く感じられた。足音がやけに響き、時折遠くで野良猫の鳴き声が聞こえるくらいで、他には何の音もない。ただ、自分の息遣いだけが耳に残る。
商店街を抜けて最初の路地に入った時、ふと違和感を覚えた。どこからか、微かに女の泣き声のような音が聞こえてきたのだ。最初は気のせいかと思った。疲れているせいで頭がおかしくなったかと自分を笑いものにしたが、歩を進めるごとにその音ははっきりと聞こえてくる。まるで誰かが嗚咽を漏らしながらすすり泣いているような、そんな声だった。
立ち止まって周囲を見回した。路地は狭く、両側に古い木造の家が並んでいる。どの家も明かりは消え、住民はすでに眠っているようだった。泣き声は、路地の奥の方から聞こえてくる。恐ろしさと好奇心がせめぎ合いながらも、私はなぜかその声のする方へ足を進めてしまった。
路地を進むにつれ、泣き声は大きくなり、同時に何とも言えない寒気が背筋を這い上がってきた。まるで冷たい手が首の後ろを撫でているような感覚だ。路地の突き当たりに近づくと、そこには小さな空き地があった。普段ならただのゴミ捨て場にしか見えない場所だが、その夜はそこに何か異様な気配を感じた。
空き地の真ん中に、うずくまるような人影が見えた。長い髪が地面につきそうなほど頭を下げ、肩を震わせながら泣いている。女だ。白い服を着ているようだったが、暗くてよく見えない。泣き声は確かにその女から発せられている。あまりにも悲痛な声に、私は思わず声をかけそうになったが、口から言葉が出てこない。代わりに、急速に心臓が脈打ち、足がすくんで動けなくなった。
すると、女がゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、私は凍りついた。女の顔には目がなかった。いや、正確には目があるべき場所に黒い穴がぽっかりと開いており、そこから涙のように真っ黒な液体が流れ落ちていた。口も異様に大きく裂け、歯が見えないほど暗い闇が広がっている。彼女は泣きながらこちらを見ているようだったが、その表情はまるで私を恨むように歪んでいた。
「…なんで…なんで…」
女が突然、低い声で呟いた。声はまるで地を這うように響き、私の耳元で直接囁いているかのようだった。次の瞬間、女の体が不自然に動き出し、まるで関節が逆方向に折れるような音を立てながら、這うようにしてこちらへ近づいてきた。
反射的に私は後ずさりし、踵を返して走り出した。路地を抜け、商店街へ出るまで必死に走った。後ろから何かが追いかけてくるような気配を感じながらも、振り返る勇気はなかった。ただただ、アパートのドアにたどり着くことだけを考えていた。息を切らしながらようやく部屋に飛び込み、鍵をかけた瞬間、泣き声はぴたりと止んだ。
部屋の電気をつけ、震える手でカーテンを閉めた。外を見ようとも思わなかった。ただ、頭の中ではあの女の顔が何度もフラッシュバックし、眠ることなど到底できなかった。翌朝、恐る恐る外に出てみたが、路地も空き地も何事もなかったかのように静かだった。ゴミ捨て場にはゴミ袋が積まれ、近所の住民が犬の散歩をしている姿が見えただけだ。
それ以来、私は夜遅くにその路地を通ることは決してなくなった。ただ、あの夜の出来事を誰かに話すと、妙な噂を耳にした。10年以上前、その空き地で若い女が何者かに襲われ、命を落としたという。彼女は事件の後も夜な夜な現れ、犯人を探しているのだと囁かれていた。だが、その噂を話してくれた人も、「まあ、ただの噂だよ」と笑いものにしていた。
それでも、私は確信している。あの夜、私が見たものはただの幻なんかじゃなかった。彼女の恨めしそうな目、あの黒い穴が私を見つめていたこと。そして、耳元で響いた「なんで」という言葉。あれは確かに、私に向けられたものだったのだ。
今でも、秋の夜に冷たい風が吹くと、あの泣き声がどこからか聞こえてくる気がしてならない。もう二度と、あの路地には近づかないと心に誓っている。