それは明治の頃、北海道の果てにある小さな村で起こった話だ。
冬の夜は息さえ凍るような寒さで、村人たちは雪に閉ざされ、互いの家を行き来することもままならなかった。村の外れに住む猟師の男は、家族を養うために吹雪の中でも山へ出かけていた。ある晩、いつものように猟に出た男が、夜が更けても戻らない。妻は心配でたまらず、幼い娘を抱きながら囲炉裏のそばで待ち続けた。
翌朝、村の男たちが集まり、吹雪が止んだ雪原を捜しに出た。だが、見つかったのは猟師の猟銃と、血に染まった毛皮だけだった。足跡は途中で途切れ、何かに引きずられたような跡が雪に残されていた。村人たちは囁き合った。「あれは山の神の仕業だ」と。猟師は神の怒りに触れ、連れ去られたのだと。
それから数日後の夜、村は再び深い雪に覆われていた。猟師の妻は娘を寝かしつけ、灯りを落として床に就こうとした時、家の外からかすかな音が聞こえてきた。ガリガリと、まるで何かが木の壁を引っ掻くような音だ。妻は凍りついた。村では夜に外へ出る者はおらず、ましてやこんな吹雪の中で音を立てる生き物などいない。恐る恐る窓の隙間から外を覗くと、そこには白い雪原に黒い影が立っていた。背が高く、異様に長い手足。顔は見えないが、まるでこちらを見つめているようだった。
妻は声を上げそうになるのを必死に堪え、娘を守るように抱きしめた。すると、影がゆっくりと動き出し、家の方へ近づいてきた。足音はせず、ただ雪の上を滑るように進む。その姿はまるで人の形をした闇そのものだった。妻は震えながら囲炉裏の灰をかき集め、家の入口に撒いた。村の古老がかつて語った言い伝えを思い出したのだ。「悪しきものは灰を越えられぬ」と。
影は戸の前で立ち止まり、しばらく動かなかった。だが、突然、戸を叩く音が響いた。ドン、ドン、ドンと、まるで中にいる者を呼び出すかのように。妻は娘を胸に押し当て、息を殺した。叩く音は次第に強くなり、戸が軋む音が家中に響き渡った。すると、どこからか低い唸り声が聞こえてきた。人間のものではない、獣とも違う、底冷えするような声だった。
その声が聞こえた瞬間、妻の体が凍りつくような寒さに襲われた。娘が小さく泣き声を上げたが、すぐに気を失ったように静かになった。妻は必死に祈った。神でも仏でもいい、この恐怖から救ってくれと。だが、叩く音は止まらず、唸り声はますます大きくなる。まるで家の中に入ろうと、戸を壊さんばかりの勢いだった。
どれだけ時間が経ったかわからない。夜が明ける直前、突然すべての音が止んだ。妻は恐る恐る窓から外を見たが、影は消えていた。雪の上には何の跡も残っていなかった。ただ、入口に撒いた灰だけが、不自然に乱れていた。まるで何かがそこを通り抜けようとしたかのように。
その日から、妻は毎晩のように同じ夢を見た。雪原の中で夫が立っている。だが、その顔は見えない。首から下が白い骨だけになり、両手が異様に長く伸びて、彼女に向かって這ってくるのだ。夢の中で夫は囁く。「お前も一緒に来い」と。その声は、まるであの夜の唸り声と同じだった。
村の古老に相談したところ、妻は恐ろしい話を聞かされた。あの山には昔から「雪鬼」と呼ばれるものが棲むという。吹雪の夜に現れ、人をさらっては魂を喰らう。猟師は雪鬼に連れ去られ、その魂が妻と娘を呼び寄せようとしているのだと。古老は言った。「奴は一度目をつけた者を決して逃がさぬ。お前もいずれ連れていかれるぞ」と。
妻は娘を守るため、村を出る決心をした。だが、村を出るための道は雪に埋もれ、春が来るまでは誰も動けない。仕方なく、妻は毎晩灰を撒き、祈りを捧げながら夜を過ごした。だが、影は再び現れることはなかった。春が来て雪が溶け、村を出る準備が整ったその日、妻は家の裏手に小さな祠を見つけた。そこには古びた木の札が置かれ、墨で「雪鬼封」と書かれていた。だが、その札は真っ二つに割れていた。
妻と娘は村を出たが、彼女の心は決して安らぐことはなかった。新しい土地に移っても、吹雪の夜になるとあの影が現れる夢を見る。そして、夢の中で夫の声が囁く。「お前も一緒に来い」と。妻は知っていた。あの雪鬼はまだ自分を追っている。そしていつか、必ず連れていかれる日が来るのだと。
今でも、北海道の古い村々では、吹雪の夜に外へ出ることを禁じる言い伝えが残っている。雪鬼は今も山奥で人を待ち、魂を求めて彷徨っているのだと。