朽ちた祠の囁き

実話風

数年前、夏の終わりのことだった。

滋賀県の山間部にひっそりと佇む集落に、俺は大学の民俗学研究の一環で足を踏み入れた。目的は古い伝承や風習を調べること。地元の人たちは温かく迎え入れてくれたが、どこかよそ者を見る目には警戒心が混じっていた。集落の外れに、藪に覆われた小さな祠があると聞き、少し気になって話を振ってみたが、皆一様に顔を曇らせ、「あそこには近づかん方がええ」と口を揃えた。理由を聞いても、誰もはっきりとは答えてくれなかった。ただ、年配の女性がぽつりと呟いた一言が頭に残った。「あそこには、昔から何かおるんや…」。

好奇心旺盛な俺は、そんな忠告を聞き流してしまった。祠の存在が気になって仕方なかったし、何より研究のネタになるかもしれないと思った。最終日の夕方、集落の皆が夕飯の支度で忙しい時間を狙って、俺は一人でその祠に向かった。地図に載っていないような細い獣道を進み、鬱蒼とした木々の間を抜けていく。空気がひんやりと重くなり、鳥の声すら聞こえなくなってきた頃、ようやくその祠を見つけた。

祠は想像以上に古びていて、石造りの小さな構造物は苔と蔦に覆われ、まるで森に飲み込まれているようだった。屋根の端は崩れ、内部には何があるのか、薄暗くてよく見えない。祠の前に立つと、なぜか背筋がゾクリと寒くなった。嫌な予感がしたけど、ここまで来たんだからと自分を奮い立たせ、祠の中を覗き込んだ。すると、奥に小さな木像が置かれているのが見えた。顔は削り取られたように平らで、どこか不気味だった。写真を撮ろうとスマホを取り出した瞬間、背後でガサッと音がした。

振り返ると誰もいない。ただの動物だろ、と自分に言い聞かせたが、心臓がドクドクと高鳴る。急に周囲が暗くなり始めた。時計を見ると、まだ夕方のはずなのに、空はまるで夜のように黒い雲に覆われていた。嫌な感じが強くなり、写真を撮るのも忘れてその場を離れようとした瞬間、祠の中から低い声が聞こえた。「…ここで死ぬか」。

凍りついた。声は確かに聞こえた。男とも女ともつかない、掠れた声。祠の中を見ても誰もいない。錯覚だ、錯覚に違いないと頭を振って、急いで獣道を戻り始めた。でも、道がさっきと違う。さっきは一本道だったはずなのに、いつの間にか分かれ道ができていて、どっちに行けばいいのか分からない。焦りが募る中、背後からまたあの声が聞こえた。「…逃げても無駄や」。

足が震えて、まともに走れない。木々の間から何かが見ているような感覚がして、視線を感じるたびに首筋が冷たくなる。必死に集落の方へ戻ろうと走っていると、突然足元が崩れた。地面が陥没していたんだ。膝まで泥に沈み、這い上がろうとした瞬間、何かに足首を掴まれた。冷たい、骨のような感触。叫び声を上げながら引きずり出そうとしたけど、力が入らない。目の前が暗くなり、意識が遠のいていく。死ぬ、と思った。

どれくらい時間が経ったのか分からない。気がつくと、俺は集落の入り口近くの田んぼのあぜ道に倒れていた。服は泥だらけで、足首には赤黒い手形のような痣ができていた。夜が明けかけていた。助かった…と思う間もなく、近くで草を刈っていたおじさんが俺を見つけて声をかけてきた。「お前…どこ行っとったんや? 顔色悪いぞ」。俺は震える声で祠のことを話した。おじさんの顔が一瞬で強張った。「あそこに行ったんか…。あんた、運が良かったな。あの祠で消えた人間、何人もおるんや」。

その言葉に背筋が凍った。おじさんによると、祠には古くから「何か」が住み着いていて、近づいた者を引きずり込むという。昔、村の若者が祠に悪戯をして以来、毎年誰かが姿を消し、最後に見つかった時には皆、祠の近くで冷たくなっていたらしい。俺は運良く生還したけど、あの時の恐怖は今でも忘れられない。特に、足首に残った手形のような痣を見るたびに、あの声が頭の中で響く。「…ここで死ぬか」。

それからしばらくして、大学の研究室でその祠について調べていたら、古い文献に似た記述を見つけた。何百年も前、村で疫病が流行った時、生贄として捧げられた者が祠に封じられたという話だった。その者の怨念が今も祠に棲み、近づく者を呪うらしい。文献を読んでいると、背後でガサッと音がした。振り返っても誰もいない。でも、あの時の感覚が蘇ってきて、思わず部屋を飛び出した。今でも、夜中に目を覚ますと、あの声が聞こえる気がして、眠れなくなることがある。俺はもう二度とあの集落には近づかない。いや、近づけない。

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