夜霧の集落に響く亡魂の囁き

心霊

鹿児島の山奥には、今も昔ながらの風習が息づく小さな集落がある。そこは外界から切り離されたような場所で、携帯の電波も届かず、夜になると霧が深い谷間から這い上がってくる。俺がその話を聞いたのは、地元の古老からだった。もう何十年も前のことだと言っていたが、まるで昨日のことのようにその目は遠くを見つめていた。

その集落には、古くから伝わる祠がある。苔むした石の祠で、村人たちは決して近づかない。祠の周りには古い注連縄が張られ、何か得体の知れないものが封じられているような雰囲気が漂っている。古老曰く、その祠には村の守り神ではなく、かつて村を襲った災いの元凶が封じられているのだという。だが、その封印は完全ではない。霧が濃くなる夜には、祠から何かが出てくるらしい。

俺がその集落を訪れたのは、たまたま山道を抜けるための近道だった。車一台がやっと通れるような細い道を抜け、夕暮れ時にその集落にたどり着いた。村は静まり返っていて、まるで時間が止まったようだった。人家はまばらで、どの家も明かりがなく、人の気配が感じられない。少し不気味に思いながらも、車を停めて一息つこうと外に出た瞬間、遠くから低い唸り声のようなものが聞こえてきた。

最初は風の音かと思った。でも、その音は徐々に近づいてくる。まるで何かが這うような、地面を擦る音が混じっていて、背筋がゾクリとした。辺りを見回しても誰もいない。ただ、霧が谷底からゆっくりと上がってくるのが見えた。嫌な予感がして、急いで車に戻ろうとした時、背後でかすかな囁き声が聞こえた。

「…かえせ…かえせ…」

その声は、まるで地の底から響くような低く掠れた声だった。振り返る勇気はなかった。足がすくんで動けない。すると、首筋に冷たいものが触れたような感覚がして、思わず声を上げそうになった。だが、何とか我に返り、車に飛び乗ってエンジンをかけた。バックミラーを見ると、霧の中にぼんやりとした人影のようなものが立っているのが見えた。いや、人影とは言えない。頭が異様に長く、腕がだらりと垂れ下がっているような、不自然な形だった。

車を急発進させてその場を離れたが、心臓はバクバクと鳴り続けていた。集落を抜けてしばらく走ると、ようやく霧が薄れてきた。でも、耳元で囁かれた「かえせ」という言葉が頭から離れない。いったい何を返せというのか。俺は何も取っていない。だが、その言葉には深い怨念のようなものが込められている気がしてならなかった。

後日、古老にその話をすると、彼の顔が一瞬で青ざめた。「あんた、あの祠の近くにいたんじゃないか?」と聞かれ、言葉に詰まった。確かに、車を停めた場所のすぐ近くに、苔むした石の祠があったのを思い出した。古老はため息をつき、こう語った。

「その祠に封じられているのは、昔、村を呪った女の霊だ。村人たちに裏切られ、生きながら祠に閉じ込められて死んだ。以来、霧の濃い夜にはその女の霊が這い出てきて、村を彷徨う。『かえせ』と言うのは、自分の命を返せという意味だ。だが、その霊に取り憑かれた者は、二度と村から出られないと言われている…」

その話を聞いてから、俺の周りで奇妙なことが起こり始めた。夜中に家の外から物音が聞こえたり、窓の外に霧が立ち込める夜には、あの囁き声が聞こえる気がする。仕事で山道を通るたび、あの集落のことが頭をよぎる。もう二度とあそこには近づきたくない。だが、どこかで、あの女の霊がまだ俺を追っているような気がしてならない。霧の夜には特に、首筋に感じたあの冷たい感触が蘇るのだ。

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