数年前、仕事の関係でしばらく佐賀の田舎町に滞在していた時の話だ。
その町は、時間が止まったような静かな場所だった。田んぼが広がり、遠くに山々が連なる風景は、都会育ちの私には新鮮だったが、同時にどこか寂寥感が漂っていた。滞在先は、古い一軒家を借りたものだった。木造の家は、夜になると妙に軋む音がして、慣れるまでは落ち着かなかった。地元の人たちは皆親切だったが、どこか遠慮がちで、私のようなよそ者にはあまり深入りしない雰囲気も感じていた。
ある晩、仕事が遅くなり、夜道を車で走っていた。町の外れにある、廃墟となった古い小学校の前を通りかかった時のことだ。その建物は、数十年も前に閉校になったと聞いていた。窓ガラスは割れ、壁は苔むして、まるで時間がそのまま放置したような姿だった。昼間ならただの寂れた風景に過ぎないが、夜に見ると、まるで何かが潜んでいるような不気味さがあった。
その夜、車を運転しながら、ふとラジオから流れる音楽が途切れ、ノイズだけが響き始めた。気味が悪いなと思いつつ、視線を前に戻すと、廃校の校庭の片隅に、ぼんやりとした白い影が見えた。最初は見間違いかと思ったが、車を少し減速して目を凝らすと、それは少女の姿だった。白いワンピースを着た、小さな女の子が、まるで宙に浮いているように立っていた。
心臓がドクンと鳴った。こんな時間に、こんな場所に子供がいるはずがない。だが、目を離すこともできず、車を停めてしまった。エンジンを切ると、静寂があたりを包み、遠くで虫の声だけが聞こえる。少女は私の方を見ているようだったが、顔は暗くてよく見えない。すると、微かに、歌声のようなものが聞こえてきた。子供の声で、どこか懐かしいメロディだったが、歌詞は聞き取れない。まるで風に運ばれてくるような、かすかな音だった。
私はその場から動けなかった。恐怖が体を硬直させていた。すると、少女が一歩、また一歩と近づいてくる。足音はしない。まるで地面を滑るように動いていた。距離が縮まるにつれ、彼女の顔がぼんやりと見えてきた。目が、異様に大きく、黒い穴のようだった。口元は笑っているように見えたが、それが逆にぞっとするほど不自然だった。
パニックになりながらも、なんとか車に飛び乗り、エンジンをかけた。アクセルを踏むと同時に、バックミラーを見た。そこには誰もいなかった。だが、車が動き出した瞬間、助手席の窓に白い小さな手がバンッと叩きつけられた。悲鳴を上げながらハンドルを切ったが、窓を見ると何もなかった。手形も、痕跡も残っていなかった。
その夜、家に帰ってからも、頭の中からあの歌声が離れなかった。何度も何度も、リフレインするように耳に響く。翌日、地元の古老にその話をしてみた。すると、彼の顔が一瞬で強張った。「あんた、あの廃校の前を通ったのか?」と低い声で聞き返された。私は頷くと、彼はため息をつきながら話を始めた。
その廃校では、数十年前、悲惨な事件があったらしい。ある少女が、学校の裏庭で遊んでいる最中に事故で亡くなった。詳細は語られなかったが、その後も彼女の霊が現れるという噂が絶えないという。特に、夜にその前を通ると、歌声が聞こえることがあるらしい。古老は、「見ちゃいかんものを見たかもしれん。気をつけな」とだけ言い、話を打ち切った。
それから数日間、私は廃校の前を通るのを避けた。だが、仕事の都合でどうしてもその道を通らざるを得ない日が来た。覚悟を決めて車を走らせたが、その夜は何も起こらなかった。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、家に帰ると、玄関のドアに小さな手形がべったりとついていた。泥のような、赤黒い手形だった。ぞっとしながらも、それを拭き取ったが、拭いても拭いても、手形は消えなかった。
翌朝、近所の神社に相談に行った。神主は私の話を聞いて、「それは穢れが憑いてるのかもしれん」と言い、何かお祓いのような儀式をしてくれた。お守りを渡され、「もう二度と近づくな」と忠告された。私は恐る恐るその言葉に従った。それから、手形は見なくなったし、歌声も聞こえなくなった。だが、今でも、あの廃校の前を通るたびに、背中に冷たい視線を感じることがある。まるで、誰かが私を見ているような、そんな感覚が消えないのだ。
数年後の今、あの町を離れて都会に戻ったが、時折、あの歌声を夢の中で聞くことがある。目を覚ますと、汗でびっしょりだ。あの少女は、いったい何を伝えたかったのだろう。何を求めていたのだろう。今でもその答えはわからない。ただ一つだけ確かなのは、もう二度と、あの廃校には近づきたくないということだけだ。