それは私がまだ若かった頃の話だ。
数十年も前のことになるが、当時私は大学の仲間たちと肝試しをするのが流行っていた。夏休みの終わり頃、誰かが「地元で有名な廃校がある」と言い出した。そこはかつて神奈川県の山間部にあった小学校で、戦後に閉校になったという。理由はハッキリしないが、近隣の住民が統合されて別の学校に移ったとか、事故があったとか、いろんな噂が飛び交っていた。とにかく不気味な場所として知られていて、夜に行くと妙な音が聞こえるとか、誰もいないはずの校舎から子供の声が響くなんて話もあった。
その日、私たちは興味本位でそこへ向かった。メンバーは私を含めて4人。車一台に乗り合わせて、夕方頃に現地に着いた。廃校は山の奥深くにあって、舗装もろくにされていない細い道を進む必要があった。車を停めてからさらに歩くこと20分、ようやく目的の場所が見えてきた。夕暮れ時の薄暗い光の中、古びた木造校舎がぼんやりと姿を現した。窓ガラスはほとんど割れていて、屋根の一部は崩れ落ち、蔦が絡まる壁はまるで時間が止まったかのようだった。
「うわ、マジで雰囲気あるな」
誰かがそう呟いたが、声には少し震えが混じっていた。私も正直、想像以上に不気味な場所だと感じていた。だけど、ここまで来て引き返すわけにもいかない。懐中電灯を手に持つ手に汗がにじむのを感じながら、校門の壊れた鉄格子をくぐった。
校舎の中に入ると、湿った木材の匂いとカビ臭さが鼻をついた。床はところどころ腐っていて、足を踏み外さないよう慎重に進んだ。最初の教室に入ると、黒板にはかすれたチョークの跡が残っていて、まるで誰かが最後に書いたものがそのままになっているようだった。机や椅子は散乱し、埃をかぶった教科書が一冊だけ床に落ちていた。私は何気なくそれを手に取ったが、ページを開いた瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。そこには子供の字でぎっしりと「かえりたい」と書かれていた。冗談にしてはあまりにも異様だった。
「やめとけよ、そんなの触るな」
後ろで仲間の一人が言ったが、私もすぐにその教科書を床に落とした。みんなの顔を見ると、さっきまでの軽いノリはどこかへ消え、真剣な表情に変わっていた。それでも、私たちは怖いもの見たさでさらに奥へ進むことにした。廊下を抜けて、体育館らしき場所にたどり着いた。そこは天井が一部崩れていて、月明かりがうっすらと差し込んでいた。体育館の真ん中には古いバスケットボールが転がっていて、なぜか妙に綺麗に見えた。
その時だった。体育館の奥から、かすかに笑い声が聞こえてきた。
「ねえ、今の聞こえた?」
私が小声で仲間たちに尋ねると、みんな顔を見合わせて頷いた。笑い声は子供のものだった。複数人の子供たちが楽しそうに笑っているような、そんな声。でも、ここは廃校だ。誰もいるはずがない。動物の声だろ、と自分に言い聞かせようとしたけど、どう考えても人間の声だった。笑い声はだんだん大きくなり、体育館全体に響き渡るようになっていった。
「やばい、帰ろうぜ」
誰かがそう言った瞬間、笑い声がピタリと止んだ。静寂が一気に辺りを支配し、耳の中で自分の心臓の音だけが響いていた。すると、今度は体育館の隅から足音が聞こえてきた。トントン、トントン。ゆっくりと、でも確実にこちらに近づいてくる。私たちは凍りついたように動けなかった。懐中電灯の明かりを足音の方向に向けたが、何も見えない。ただ、足音だけがどんどん近づいてくる。
「走れ!」
誰かが叫んだ瞬間、私たちは一斉に体育館の出口目指して駆け出した。背後で足音が追いかけてくる気がした。いや、足音だけじゃない。さっきの笑い声が再び聞こえてきた。でも今度は楽しそうな笑いじゃない。まるで嘲笑うような、底冷えのする声だった。体育館を出て、廊下を抜け、校門を飛び越えるまで、私たちは振り返ることもできずに走り続けた。校門を出た瞬間、背後でドンという大きな音が響いた。まるで校門の鉄格子が閉まるような音だった。
車に戻ってエンジンをかけ、急いでその場を離れた。誰も一言も喋らない。助手席の仲間が震えながら後ろを振り返ったが、何も言わなかった。しばらく走って、ようやく安全な場所に出た時、私たちは顔を見合わせてようやく一息ついた。
「二度とあんなとこ行かねえ」
運転してた仲間がつぶやいた。私も心から同意した。あの夜のことは今でも忘れられない。後日、その廃校のことを調べてみたが、詳しい記録はほとんど残っていなかった。ただ、地元の古い住民に話を聞くと、昔その学校で何かあったらしいとは言うものの、具体的なことは誰も教えてくれなかった。ある人は「子供たちが可哀想だった」とだけ呟いて、それ以上何も話さなかった。
それから数年後、私は偶然その廃校があった場所の近くを通る機会があった。もう校舎は完全に取り壊されていて、ただの更地になっていた。でも、なぜかその場所に近づくと、今でもあの笑い声が聞こえてくるような気がして、急いでその場を立ち去った。あの夜、私たちが見たもの、聞いたものは一体何だったのか。今でもわからない。ただ一つ確かなのは、あの廃校には何かがあった。そしてそれは、今もそこに漂っているのかもしれない。

