廃神社に響く子守唄

心霊現象

今から20年前、私は大学二年の夏休みを利用して、友人の実家がある石川県の山間部へ遊びに行った。

友人の実家は、集落の外れにポツンと建つ古い家だった。山に囲まれたその場所は、昼間でもどこか薄暗く、夜になるとまるで闇に飲み込まれるようだった。友人は「この辺、昔から変な話が多いんだよ」と笑いながら話していたが、私にはその言葉が妙に引っかかった。

ある夜、友人と二人で酒を飲みながら他愛もない話をしていると、ふと外から奇妙な音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、よく耳を澄ますと、それはかすかな歌声のようにも聞こえた。子守唄のような、ゆったりとしたメロディ。だが、どこか不気味で、背筋に冷たいものが走るような感覚があった。

「何だこれ?」私は友人に尋ねたが、彼は首を振って「知らない。こんな時間に歌う人なんていないよ」と言った。時計を見ると、すでに深夜の2時を回っていた。集落には街灯も少なく、辺りは真っ暗。こんな時間に歌うなんて、普通じゃない。

好奇心と少しの恐怖心が入り混じり、私たちはその音の出どころを探ることにした。懐中電灯を手に、家の裏手へ続く細い道を進む。音はだんだんと大きくなり、山の奥の方から聞こえてくるようだった。友人が「あっち、昔の神社があるとこじゃない?」と言い出した。その神社はもう何十年も前に廃れて、今は誰も近づかない場所だと聞いていた。

しばらく歩くと、木々の間に古びた鳥居が見えてきた。苔むした石段が続き、その先には朽ちかけた社が薄暗い月明かりに照らされている。歌声は明らかにそこから聞こえてくる。子守唄のようなメロディは、まるで誰かを呼ぶように、悲しげに響いていた。

「やめようぜ…なんかヤバい気がする」友人が震えた声で言った。私は彼の言葉に頷きながらも、なぜか足が勝手に動いてしまう。まるで歌声に引き寄せられるように、石段を上り始めた。

社に近づくにつれ、歌声ははっきりと聞こえるようになった。女の声だ。掠れたような、どこか虚ろな声で、子守唄を繰り返し歌っている。だが、その歌詞は聞き取れない。まるで別の言語のようにも感じられた。社の前まで来たとき、突然歌声がピタリと止んだ。

静寂が辺りを包む。風さえも止まり、まるで時間が凍りついたようだった。私は息を潜め、周囲を見回した。すると、社の裏手からかすかな物音が聞こえてきた。カサ…カサ…と、枯れ葉を踏むような音。私は懐中電灯を手に、恐る恐るその方向へ光を向けた。

そこには、誰もいなかった。だが、地面には小さな足跡がいくつも残っていた。子どものものと思われるほど小さな足跡が、社の裏からさらに奥の森へ続いている。そして、その足跡の周りには、まるで何かを引きずったような跡もあった。背筋が凍る思いがした。

「帰ろう…今すぐ帰ろう」友人が私の腕を掴み、引きずるようにして石段を下り始めた。私は抵抗する気力もなく、ただ彼に付いて行くことしかできなかった。家に戻る道すがら、何度も振り返ったが、誰も追いかけてくる様子はなかった。だが、あの子守唄のメロディは、頭から離れなかった。

家に戻り、ようやく落ち着いた頃、友人が祖母にその話を聞いてみることにした。祖母は私たちの話を聞くと、顔を真っ青にしてこう言った。

「あの神社はね、昔、子を亡くした母親たちが集まって、お祈りを捧げる場所だったの。だけど、ある年、ひとりの母親が気が狂ってしまって…自分の子を連れ戻すために、悪いものに魂を売ったって噂があった。それ以来、夜中に子守唄が聞こえるって言う人がいるのよ。絶対に近づいちゃいけない場所なの」

その話を聞いて、私たちは言葉を失った。あの歌声は、確かに母親のものだったのかもしれない。だが、なぜ私たちを呼ぶように響いたのか。それが子守唄だったのか、それとも何かを求める呪いの声だったのか、今でもわからない。

翌日、私たちはその集落を後にした。帰る道すがら、車の中から遠くに見える山の稜線を眺めていたが、なぜかあの神社の方向だけが、黒い霧に包まれているように見えた。あれはただの錯覚だったのかもしれない。だが、今でもあの夜のことを思い出すと、耳の奥でかすかに子守唄が聞こえる気がして、背筋がゾッとするのだ。

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