夜の浜辺で囁く亡魂

実話風

沖縄の夏は、特別な熱気と湿気を帯びている。
本土とは違う、空気そのものが生きているような感覚があって、夜になるとその感覚はさらに強まる。
今から30年前、私がまだ大学生だった頃、夏休みに友人数人と沖縄の離島へ遊びに行った時の話だ。

その島は観光地としてはまだあまり知られていなくて、宿泊施設も簡素な民宿が数軒あるだけ。
私たちは安い民宿に泊まり、昼間は海で泳ぎ、夜は浜辺で酒を飲んで騒ぐという、典型的な若者の遊び方をしていた。
三日目の夜だったと思う。
その日は少し曇っていて、月明かりも薄く、波の音がいつもより重く響いていた。
いつものように浜辺に集まって、持ってきた酒を飲みながらくだらない話をしていたけど、なんだかその日は全員が少しそわそわしていた。

「なぁ、なんかさ、今日の海、変じゃない?」
一人がぽつりと言い出した。
確かに、海岸線を見ると、波が寄せては返すたびに、妙にゆっくりとしたリズムで動いている気がした。
まるで何かに合わせて揺れているような、不自然な感じ。
「やめろよ、気味悪いこと言うな」
別の友人が笑いものにしたけど、声が少し震えていた。
私も無性に落ち着かない気分になってきて、砂浜に座りながら、膝を抱えて海を眺めていた。

しばらくすると、遠くの波間から、何かがぽつんと浮かんでいるのが見えた。
最初はゴミか何かだと思ったけど、よく見ると人影のような形をしている。
「…あれ、何?」
私が思わず呟くと、全員が一斉にそっちを見た。
確かに、人の形だ。
でも、浮かんでいるというより、立っているようにも見える。
波に揺られながら、じっとこちらを見ているようなシルエット。
「泳いでるんじゃない?夜泳ぎしてる奴もいるだろ」
一人が言ったけど、誰もがその言葉を信じていないのが分かった。
だって、その人影は動かないんだ。
波に揺られながら、ただじっとそこに立っている。

「ちょっと近づいてみようぜ」
一人が立ち上がって、懐中電灯を持って歩き出した。
私は嫌な予感しかしなかったけど、みんながぞろぞろ付いていくから、仕方なくついて行った。
波打ち際まで近づくと、その人影はまだそこにいた。
懐中電灯の明かりを向けても、反射するような感じがなくて、まるで光を吸い込むような黒い影だった。
「…おい、誰かいる?大丈夫?」
友人が叫んだけど、返事はない。
ただ、波の音の中に、かすかに何かが混じっている気がした。
ヒューッ…ヒューッ…という、風のような、でも人の息遣いのような音。

その瞬間、急にその影が動いた。
スーッと、まるで滑るようにこちらに近づいてくる。
「うわっ!」
誰かが叫んで、全員が一斉に後ずさりした。
私も心臓が跳ね上がるような恐怖を感じて、足がすくんで動けなかった。
影はどんどん近づいてきて、波打ち際から数メートルのところで止まった。
そこではじめて、その影が何なのかが分かった。
女だった。
長い髪が顔を覆っていて、顔は見えない。
白い服が濡れて体に張り付いていて、足元がぼんやりと霞んでいる。
まるで浮いているみたいに、足が地面に触れていないように見えた。

「…かえして…」
突然、女の口から掠れた声が漏れた。
その声は、まるで耳元で囁かれているような、異様に近い響きだった。
全員が凍りついて、誰も動けない。
「かえして…かえして…」
女が一歩近づくたびに、その声が大きくなる。
私はその時、初めて本物の恐怖というものを味わった。
頭の中が真っ白になって、ただただ逃げなきゃって思うのに、体が動かない。

次の瞬間、女が顔を上げた。
長い髪の隙間から見えた顔は、まるで能面のように白く、目が真っ黒に塗りつぶされたようだった。
口が異様に大きく裂けていて、そこから「かえしてぇぇぇ!」と叫ぶ声が響いた。
その声に押されるように、私はやっと体が動いて、叫びながら後ろに倒れた。
友人も一人が転び、一人が泣き叫びながら走り出す。
私たちはパニックになって、浜辺を這うように逃げ出した。

民宿に逃げ帰って、鍵をかけて布団をかぶったけど、誰も眠れなかった。
波の音の中に、あの「ヒューッ…ヒューッ…」という音が混じっている気がして、耳を塞いでも頭から離れない。
次の日、朝になってから民宿の主人にその話をすると、主人は顔を曇らせてこう言った。
「あの浜辺には、昔、海で命を落とした女の霊が出るって話がある。なんでも、恋人に裏切られて海に身を投げたんだ。ずっと何かを探してるみたいでな…」
その言葉を聞いて、私たちはぞっとした。
だって、女が言っていた「かえして」という言葉が、何を指しているのか、まるで分からないからだ。

その後、私たちは予定を切り上げて島を離れた。
でも、あの夜のことは今でも忘れられない。
波の音を聞くたびに、あの「ヒューッ…ヒューッ…」という音が蘇ってくる。
そして、あの女がまだ浜辺で何かを探しているんじゃないかと思うと、今でも背筋が冷たくなるんだ。

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