それは、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
俺は大学時代の友人と久しぶりに会うため、山形県の田舎町にやってきた。地元に帰省していた友人が、「せっかくだから面白い場所に連れて行ってやるよ」と言うので、軽い気持ちでついて行くことにした。車を走らせて30分ほど、舗装もろくにされていない山道を進むと、目の前に古びた建物が現れた。廃墟だ。周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、月明かりだけが頼りだった。
「ここ、昔は病院だったんだってさ。でも何かヤバいことがあって、急に閉鎖されたらしい。今じゃ地元の奴らも近寄らない場所だよ」。友人はニヤニヤしながらそう言った。確かに、コンクリートの壁はひび割れ、窓ガラスはほとんど割れてなくなっていて、不気味な雰囲気が漂っている。俺は少し嫌な予感がしたが、友人のテンションに押されて中に入ることにした。
建物の中は、予想以上に荒れ果てていた。床には埃とガラス片が散らばり、壁には意味不明な落書きがされていた。懐中電灯の光で照らすと、古いカルテや壊れた医療器具が転がっていて、かつてここが病院だったことを物語っていた。空気は湿っぽく、カビ臭い匂いが鼻をつく。友人は「もっと奥に行ってみようぜ」と言い、俺を引っ張るように進んでいった。
しばらく歩くと、広いホールのような場所に出た。天井が高く、壁には大きなシミが広がっている。そこに立った瞬間、背筋に冷たいものが走った。何か変だ。友人も気づいたのか、「おい、聞こえるか?」と小声で聞いてきた。耳を澄ますと、確かに何か音がする。遠くから、トン…トン…という規則的な足音が聞こえてきた。最初は小さかったその音は、徐々に大きくなり、まるで誰かがこっちに向かって歩いてくるようだった。
「お前、まさか誰かいるのか?」俺は冗談っぽく言ったが、内心では心臓がバクバクしていた。友人は首を振って、「いや、この時間にこんな廃墟に来る奴なんていないよ」と答えた。それでも足音は止まらない。トン…トン…。懐中電灯で周りを照らしても、誰もいない。ただ、暗闇の奥が妙に重たく感じる。空気がさらに冷たくなった気がした。
突然、足音がピタリと止んだ。静寂が耳に痛いほどだった。その瞬間、友人が「うわっ!」と声を上げて後ずさった。「何!?」と俺が聞くと、友人は震える声で「今、影が…あそこの壁に…」と言った。慌てて懐中電灯を向けると、確かに壁に人の影のようなものが映っている。でも、俺たちの位置からじゃ、そんな影ができるはずがない。光の角度が合わないのだ。
「ふざけんなよ、気持ち悪い…帰ろうぜ」。俺はそう言って踵を返そうとしたが、友人が「待てよ、もう少し見てみよう」と俺の腕をつかんだ。嫌々ながらも付き合うことにしたが、その判断が間違いだった。次の瞬間、背後から低い唸り声のようなものが聞こえた。振り返ると、そこには何もない。ただ、懐中電灯の光が届かない暗闇が広がっているだけだ。でも、明らかに何かがいる気配があった。
俺たちは慌てて出口に向かって走り出した。足音が再び聞こえ始めたが、今度は一つじゃない。複数だ。トントントン…と、まるで何かが追いかけてくるように響く。崩れかけた階段を駆け下り、割れた窓を飛び越えて外に出た。車に飛び乗り、エンジンをかけると同時に振り返った瞬間、廃墟の窓に白い人影が立っているのが見えた。顔は見えない。ただ、そこにいる、というだけで異様な恐怖が全身を貫いた。
車を飛ばして町に戻る間、友人はずっと黙り込んでいた。俺も何かを話す気にはなれなかった。ようやくコンビニの明かりが見えた時、友人がポツリと言った。「あれ…俺たち以外にも誰かいたのかな」。俺は答えられなかった。ただ、あの足音と影が頭から離れない。
それから数日後、友人と連絡を取った時、衝撃的な話を聞いた。あの廃墟で撮った写真を見返していたら、俺たちの後ろにぼんやりとした人影が映り込んでいたらしい。慌ててデータを消したと言っていたが、俺にはその写真を見せる気はないようだった。俺自身、あの夜のことを思い出すたび、背後で何かが動くような感覚に襲われるようになった。
今でも思う。あの廃墟には、何か得体の知れないものが棲みついている。あの足音は、俺たちを追い詰めようとした何かだったんじゃないか。そして、もしかしたら俺たちは、あの場所から何かを持って帰ってきてしまったのかもしれない。夜中、部屋の隅で微かに聞こえる物音が、ただの気のせいだと思いたい。でも、心のどこかで、あの廃墟の記憶が疼いている。