栃木県の山間部に引っ越してきてから、ちょうど一ヶ月が経った頃だった。
私は小さな集落のはずれに建つ古い一軒家を借りていた。仕事の都合で都会を離れ、自然に囲まれた静かな暮らしに憧れての移住だった。最初は新鮮で心地よい日々だったが、ある夜を境にその印象は一変した。
その日は残業で遅くなり、帰路についたのは深夜を過ぎた頃だった。山道を車で走っていると、突然エンジンがガタガタと異音を立てて停止した。携帯の電波も圏外で、仕方なく懐中電灯を手に車外に出た。辺りは静まり返り、時折風が木々を揺らす音だけが響く。周囲には人家も街灯もなく、真っ暗な山道に私一人。少し心細かったが、歩いて集落まで戻るしかなかった。
歩き始めて数分、背後からかすかな音が聞こえた。サクッ、サクッ。枯れ葉を踏むような足音だ。振り返っても何も見えない。動物だろうかと気を落ち着け、再び歩き出した。だが、その足音は徐々に近づいてくる。サクッ、サクッ、シャリシャリ。まるで私の歩調に合わせるように。懐中電灯で周囲を照らすが、木々と闇しか映らない。心臓が早鐘を打ち、不安が募った。
「誰かいるの?」
思わず声に出したが、返事はない。代わりに、風に混じって低い囁き声が聞こえた気がした。「こっち…こっち…」。凍り付くような感覚が背筋を走った。私は走り出した。足音が追いかけてくる。シャリシャリ、シャリシャリ。息が上がり、足がもつれそうになる中、必死に集落を目指した。
やっと家の明かりが見えた時、後ろの足音がピタリと止んだ。振り返ると、そこには誰もいない。ただ、遠くの木々の間から、こちらを見つめる白い影のようなものが一瞬だけ見えた気がした。家に飛び込み、鍵をかけた瞬間、全身から力が抜けた。
翌朝、車を見に行くと、エンジンは何事もなかったかのように動き出した。不思議に思いつつも、あの夜のことは誰にも話さなかった。ただ、不気味な感覚が拭えず、それから毎晩、カーテンの隙間から外を覗く癖がついた。すると、ある夜、窓の外にその白い影が立っていた。顔はない。ただ、真っ黒な穴のような目が私をじっと見つめている。囁き声がまた聞こえた。「お前…見てる…」。
慌てて電気を消し、布団に潜り込んだが、心臓の鼓動が収まらない。翌日、近所のおばあさんにそれとなく聞いてみた。「この辺で変なものを見たことありますか?」と。おばあさんは一瞬目を細め、「山には昔から妙なものが住んでるよ。夜は出歩かない方がいい」とだけ言った。その口調に、冗談ではない重みを感じた。
それ以来、私は夜の山道を避けるようになった。だが、影は消えなかった。家の周りを徘徊する気配、窓を叩く微かな音、時折聞こえる囁き声。ある晩、勇気を出してカーテンを開けると、そこには白い影が立っていた。距離はわずか数メートル。黒い穴のような目が私を捉え、口元が裂けるように広がった。「お前…逃げられない…」。その声は頭の中で直接響いた。
次の瞬間、影は消えた。だが、それから毎夜、夢の中でその影が現れるようになった。山道を走る私を追いかけ、囁き、笑う。現実と夢の境界が曖昧になり、私は眠るのが怖くなった。ある日、とうとう限界を感じ、家を引き払う決意をした。荷物をまとめていると、古い押し入れから一枚の写真が出てきた。そこには、この家に立つ白い影が写っていた。裏には殴り書きで「お前も」とだけ記されていた。
引っ越した今でも、夜になるとあの囁き声が聞こえる気がする。窓の外に白い影が立っているような錯覚に襲われる。私はもう、あの山道には二度と近づかない。でも、心のどこかで思う。あの影は、私を見つけていたのではないか。そして、今もどこかで私を追い続けているのではないか、と。
(おわり)