鳥取の山奥に、古くから人々が近づかないとされる沼がある。地元では「ささやきの沼」と呼ばれ、訪れる者を恐怖と狂気に引きずり込む場所として恐れられていた。その水面は常に不気味なほど静かで、まるで何かを隠しているかのように黒く濁っている。風が吹いても波一つ立たず、ただ深い闇がそこに広がっているだけだ。
ある夏の終わり、俺は友人の誘いでその沼の近くを通ることになった。友人は地元の出身で、子供の頃からその沼にまつわる怪談を聞かされて育ったらしい。「面白半分で見に行こうぜ」と軽いノリで誘ってきたが、俺は最初から嫌な予感がしていた。それでも断りきれず、車に乗り込んで山道を進んだ。
夕暮れ時、車を停めて沼のほとりにたどり着いた。空は赤く染まり、木々の間から漏れる光が沼の表面をかすかに照らしていた。友人は「ほら、何も怖くないだろ」と笑いながら石を投げ込んだ。石が水面に落ちた瞬間、鈍い音が響き、波紋が広がった。だが、その波紋はすぐに消え、再び静寂が戻ってきた。俺は何かおかしいと感じた。自然の音が一切聞こえない。虫の声も、鳥のさえずりも、何もかもが消えていた。
「帰ろう」と俺が言いかけたとき、友人が急に立ち止まった。彼の顔から笑みが消え、目が沼の一点を見つめている。「聞こえるか?」と小さな声でつぶやいた。俺は何も聞こえなかったが、彼の表情があまりに真剣で、背筋が冷たくなった。「何だよ?」と聞くと、彼は震える声で答えた。「誰かが…俺の名前を呼んでる」。
その瞬間、微かな風が吹き、沼の表面がわずかに揺れた。そして、確かに聞こえた。低く、かすれた声がどこからともなく響いてくる。「おいで…おいで…」と繰り返し、友人の名前を織り交ぜながら囁いている。俺は恐怖で足がすくみ、友人の腕をつかんで引き戻そうとした。だが、彼はまるで何かに取り憑かれたように、ゆっくりと沼の方へ歩き始めた。
「やめろ!」と叫びながら俺は必死に彼を止めようとしたが、彼の力は異常に強く、振りほどかれてしまった。友人は水辺に近づき、膝まで水に浸かると、突然立ち止まった。そして、振り返った彼の顔を見て俺は絶句した。目が真っ黒で、白目が完全に消えていた。口元には不気味な笑みが浮かび、「お前も来いよ」と低い声で言った瞬間、彼の体が沼に引き込まれるように沈んでいった。
俺は逃げた。車に飛び乗り、エンジンをかける手が震えて何度もキーを落とした。後ろを振り返る勇気もなく、ただひたすら山道を下った。家にたどり着いた時には夜が更けていたが、眠るどころか目を閉じるのも怖かった。あの沼の囁きがまだ耳に残っていて、今にも俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきそうだった。
翌日、友人の家族に連絡したが、彼は見つからなかった。警察も沼周辺を捜索したが、手がかりすらなく、ただの行方不明として処理された。だが、俺には分かっていた。あの沼が彼を呑み込んだのだ。そして、恐ろしいことに、それから数日後、俺の周囲で奇妙なことが起こり始めた。
夜中になると、どこからか水滴が落ちる音が聞こえる。最初は風呂場の水漏れかと思ったが、調べても何も異常はない。なのに、毎晩同じ時間に「ポタ…ポタ…」と音が響く。そして、ある晩、音が近づいてきた。ベッドのすぐ横で聞こえた瞬間、俺は飛び起きた。暗闇の中で何かが見えた。黒い影が、沼の水のような臭いを漂わせながら、じっと俺を見つめていた。
それからというもの、俺は毎晩その影を見るようになった。影は少しずつ形を変え、友人に似てきた。目が黒く染まり、口元に笑みを浮かべた姿で、俺に囁く。「お前も来いよ…沼が待ってる…」。俺は耐えきれず、家を出て遠くの街へ逃げた。だが、どこへ行っても水滴の音と影は追いかけてくる。鏡を見ると、時折俺の目が黒く染まっているように見える瞬間がある。
今、俺は思う。あの沼には呪いがある。行った者を逃がさない、終わりのない呪いだ。友人は俺を誘ったことでその呪いに巻き込まれ、そして俺もまた逃れられない。いつか俺もあの沼に引き込まれ、黒い水の中で永遠に囁き続けるのだろうか。この話を書いている今も、背後で水滴の音が聞こえる。誰か、助けてくれ…。