それは私がまだ幼い頃、母の実家で過ごした夏の出来事だった。
田んぼに囲まれた古い集落。そこは、時が止まったような静けさに満ちていた。母の実家は、木造の大きな家で、軒下には古びた風鈴が揺れ、チリンチリンと寂しげな音を立てていた。夏休みになると、母は私を連れてこの家に帰省するのが常だった。祖母は優しい人で、私に昔話を聞かせてくれたり、縁側でスイカを一緒に食べたりした。だが、その夏は何か違っていた。
今から30年前、1995年の夏。私は7歳だった。蒸し暑い夜、寝苦しくて目を覚ますと、母の姿が隣にないことに気づいた。布団はまだ温かく、彼女が立ち去って間もないようだった。不思議に思って起き上がり、薄暗い廊下に出ると、遠くからかすかな歌声が聞こえてきた。それは子守唄だった。母がよく私に歌ってくれた、あの優しい旋律。なのに、その夜の歌声はどこか不気味で、背筋がゾクリとした。
「母ちゃん?」
小さな声で呼びながら、裸足で廊下を進んだ。歌声は家の奥、普段は使われていない座敷の方から聞こえてくる。板張りの床が足の裏に冷たく、歩くたびにキィキィと音を立てた。座敷に近づくにつれ、歌声がはっきり聞こえてきた。だが、それは母の声ではなかった。低く、掠れた女の声。まるで風が枯れ枝を擦るような音だった。
座敷の襖は少し開いていて、中から薄い光が漏れていた。恐る恐る覗き込むと、そこには見知らぬ女がいた。白い着物を着た、長い黒髪の女が、部屋の中央に座っていた。彼女の手には赤ちゃんを抱いているように見えたが、その姿はぼんやりしていて、よく見えない。女はこちらに背を向け、子守唄を歌い続けていた。
「ねんねんころりよ、おころりよ…」
その声は、耳にまとわりつくように響いた。私は恐怖で動けなくなった。すると、女がゆっくりと首を動かし始めた。彼女の顔が見える。見えてしまう。そんな予感に震えながら、私は目を閉じた。だが、好奇心が勝ってしまい、わずかに目を開けてしまった瞬間、女の首が不自然な角度に曲がり、私を振り返った。
顔はなかった。目も鼻も口もない、真っ白な面がこちらを向いていた。私は悲鳴を上げて後ずさり、襖に背中をぶつけた。その音で女が立ち上がり、私の方へ近づいてくる。足音はない。ただ、子守唄だけが大きくなり、頭の中で反響した。
逃げなきゃ。そう思って廊下を走り出したが、足がもつれて転んでしまった。振り返ると、女が襖の隙間から這うように出てくる。白い着物の裾が床を擦り、手が不気味に伸びてくる。私は這うようにして逃げ、母の寝ていた部屋に飛び込んだ。だが、そこにも母はいなかった。
「母ちゃん!どこ!?」
泣き叫ぶ私の声に、家の中が急に静寂に包まれた。子守唄が止み、女の気配も消えた。しばらくして、階段を上がる足音が聞こえ、母が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「どうしたの!?大丈夫!?」
母にしがみつきながら、私は震える声で見たものを話した。母は黙って私の背中を撫でていたが、その手が微かに震えているのに気づいた。そして、彼女がぽつりと呟いた言葉が、今でも忘れられない。
「あの子、また来たんだね…」
翌朝、母は私を連れて早々に実家を後にした。その理由を尋ねても、母は「もう大丈夫だから」とだけ言って、それ以上は何も語らなかった。だが、数年後、祖母が亡くなった時に聞いた話で、ようやくあの夜の真相が少しだけ分かった。
祖母によると、あの家には昔、子を亡くした女の霊が住み着いているという噂があった。戦時中、空襲で我が子を失った母親が、悲しみのあまり命を絶ち、その後も子守唄を歌いながら我が子を探しているのだと。集落の古老たちは、時折その歌声を聞くと言い、誰も近づかないようにしていたらしい。母も子どもの頃、同じ女を見たことがあり、あの夜、私が騒いだことでその記憶が蘇ったのだろう。
それから私は二度とあの家には戻っていない。母も実家を訪れることはなくなり、やがて家は取り壊された。だが、今でも蒸し暑い夏の夜になると、あの子守唄が耳に蘇る。あの掠れた声が、私の名前を呼んでいるような気がして、目を閉じても眠れない夜がある。
どこかで彼女はまだ歌っているのだろうか。子を失った悲しみを抱え、薄闇の中を彷徨いながら。もしまたあの歌声を聞いたら、私はどうすればいいのだろう。逃げるべきか、それとも彼女に寄り添うべきか。そんなことを考えるたび、心の奥底に冷たいものが広がっていく。