数年前、私は香川県の小さな町に引っ越してきた。仕事の都合で都会から離れ、のどかな田舎暮らしを始めたばかりだった。
その町には、古びたうどん屋があった。昼間は地元の人で賑わうが、夜になると人通りも少なくなり、店の明かりだけがぽつんと闇に浮かんでいる。ある晩、残業で遅くなった私は、腹が減ってそのうどん屋に立ち寄ることにした。時刻はすでに深夜0時を回っていた。
店内に入ると、カウンターに座ったのは私一人。店主らしきおじさんが、無言でうどんを茹で始めた。湯気と共に、どこか懐かしい小麦の香りが漂う。疲れていた私は、黙ってそれを眺めていた。
すると、突然、店の奥から低い声が聞こえてきた。「…帰れ」。
一瞬、耳を疑った。店主はこちらを見もせず、黙々と鍋をかき混ぜている。客は私以外にいないはずだ。錯覚かと思い、気にしないことにした。だが、次の瞬間、またその声が響いた。「…帰れ。ここはお前が来るところじゃない」。
今度ははっきりと聞こえた。声は低く、かすかに震えているようで、どこか怨念のようなものを感じさせた。私は思わず背筋が寒くなり、店内を見回した。でも、そこには私と店主しかいない。店主は相変わらず無表情で、まるで何も聞こえていないかのようだった。
「すみません、今何か聞こえませんでしたか?」と、恐る恐る尋ねてみた。店主は手を止めて顔を上げ、じっと私を見つめた。その目が妙に冷たくて、まるで私を値踏みするような視線に感じられた。「何も聞こえんよ。お客さん、疲れてるんじゃないか?」とだけ言い、また作業に戻った。
確かに疲れていたのかもしれない。でも、あの声はあまりにもリアルで、頭から離れなかった。うどんが出てきたが、箸を持つ手が震えてうまく食べられない。すると、また声がした。今度はもっと近く、耳元で囁くように。「…お前が食うものじゃない。帰れ」。
私は箸を落とし、思わず立ち上がった。店主が怪訝そうな顔でこちらを見ていたが、もう我慢できなかった。「すみません、急用を思い出したので」と言い残し、代金を置いて店を出た。
外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。背後で店の扉がカタンと閉まる音がしたが、振り返る勇気はなかった。急いで家に帰り、鍵をかけて布団に潜り込んだ。でも、あの声が頭の中で反響し続けて、眠るどころではなかった。
翌日、気になって近所の人にあのうどん屋について聞いてみた。すると、意外な話が返ってきた。「あそこなぁ、数年前に変な噂があったんよ。夜中に誰もいないはずの店から声が聞こえるって。昔、そこで働いてた人が急に亡くなって、それ以来おかしくなったって話やけど、まぁ迷信やろ」と笑いものだ。
迷信かもしれない。でも、私にはあの声がただの幻聴とは思えなかった。それからしばらくは、夜に外に出るのが怖くて仕方なかった。ある日、町の古老にその話をすると、彼は顔を曇らせてこう言った。「あんた、あの店で何か見たり聞いたりしたんなら、気をつけな。そこには昔から何かおるって言われとる。うどん食いに来た客に見えるもんでもないはずや」。
その言葉がさらに私の恐怖を煽った。あの声は一体何だったのか。店主はなぜ何も聞こえないふりをしていたのか。そして、私にだけ聞こえた理由は?考えれば考えるほど、底の見えない闇に引きずり込まれるような感覚に襲われた。
それから数週間後、私は再びあのうどん屋の前を通った。昼間だったが、店は閉まっていた。看板には「閉店」の文字。近所の人に聞くと、「店主が急に店を畳んで、どこかへ行ってしまった」とのことだった。理由は誰も知らない。ただ、ある人はこう呟いていた。「あの店、なんかおかしかったからなぁ。夜中に変な声が聞こえるって言う人もおったし」。
今でも、あの夜のことを思い出すと全身が冷たくなる。あの声は私に何を伝えようとしていたのか。もう二度と知ることはないだろうけど、香川の田舎町で過ごしたあの数年前の記憶は、ずっと消えない恐怖として心に刻まれている。