山形の冬は厳しい。雪が膝まで積もり、風が木々の間を抜けて不気味な音を立てる。10年前の2月、私がまだ地元の小さな集落に住んでいた頃の話だ。そこは古い家々が密集し、夜になると静寂が全てを包むような場所だった。
その夜、私は一人で家にいた。両親は親戚の家に泊まりに行き、私は風邪を引いていたため留守番をしていた。外は吹雪がひどく、窓の外は白い靄に覆われていた。暖炉の火がパチパチと音を立てる中、私は毛布にくるまって本を読んでいた。
すると、突然、家の外から奇妙な音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のように聞こえてきた。低く、うめくような声。誰かが助けを求めているのか?でもこんな吹雪の中、外に人がいるはずがない。私は耳を澄ませた。声は遠くから近づいてくるようだった。
「助けて…助けて…」
はっきりとそう聞こえた瞬間、背筋が凍った。声は家のすぐ近くまで来ている。私は恐る恐る窓に近づき、カーテンを少しだけ開けて外を見た。だが、そこには何もなかった。ただ白い雪と闇が広がるだけ。声は聞こえるのに、姿が見えない。不安が胸を締め付けた。
その時、家の裏口のドアがガタガタと揺れ始めた。鍵はかけてあるはずなのに、誰かが強く引っ張っているような音だった。私は慌てて暖炉のそばにあった鉄の火かき棒を手に持った。心臓が喉まで上がりそうだった。ドアの揺れが止まり、一瞬の静寂が訪れた。そして、次の瞬間。
「ドンッ!」
大きな音とともにドアが叩かれた。私は悲鳴を上げそうになったが、必死に声を抑えた。叩く音は一度だけでは終わらず、一定のリズムで繰り返された。ドン、ドン、ドン…。まるで誰かが私を試しているかのように。
私は震えながら電話に手を伸ばし、近所に住む叔父に助けを求めようとした。だが、電話は不通だった。吹雪のせいで回線が切れているのか、それとも…。考えたくもない想像が頭をよぎった。叩く音が止んだ時、私は意を決して裏口の方へ近づいた。火かき棒を握りしめ、息を殺してドアの前に立った。
すると、ドアの下の隙間から冷たい風が吹き込んできた。そして、その風に混じって何か黒い影がチラリと見えた気がした。私は思わず後ずさりした。影は一瞬で消えたが、その後もドアの向こうから微かな音が聞こえてきた。爪で引っかくような、かすれた音。
その夜、私は一睡もできなかった。暖炉の火が消えそうになるたびに薪をくべ、火かき棒を手に持ったまま朝を待った。音は夜が明ける直前にようやく止んだ。外が薄明るくなった頃、私は勇気を振り絞って裏口のドアを開けた。そこには何もなかった。ただ、ドアの外側に不自然な引っかき傷がいくつも残されていた。
後日、近所のお年寄りにその話をすると、顔色を変えてこう言った。
「あの集落の裏山には昔から何かいるって噂があったよ。特に吹雪の夜にはね…出てくるんだよ」
私はその言葉を聞いてぞっとした。それから数日後、叔父と一緒に家の中を調べていると、屋根裏から古い日記が出てきた。そこには、数十年前にこの家に住んでいた家族が書いたものらしき記録があった。内容はこうだ。
「吹雪の夜、家の周りをうろつく影を見た。声が聞こえる。助けを求めるような声。でも、外には誰もいない。あれは人間じゃないかもしれない」
日記の最後のページには、震えるような字でこう書かれていた。
「もう逃げられない。あいつが来る」
私はその日記を読んでからというもの、二度とあの家には近づかなかった。あの夜の声と影が何だったのか、今でもわからない。ただ一つ確かなのは、あれがただの錯覚や風の音ではなかったということだ。あの集落には何か得体の知れないものが潜んでいる。私はそう確信している。
それからしばらくして、私は別の町に引っ越した。だが、吹雪の夜になると今でもあの声を思い出す。遠くから近づいてくる、助けを求めるような声。そして、ドアを叩く音。あの恐怖は一生消えないだろう。