熊本県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、子供の頃から祖母に言い聞かされてきた。「夜の山には近づくな。異界の者がお前を連れていくぞ」と。現代に生きる私には、そんな話はただの迷信にしか思えなかった。だが、あの夜、私はその言葉の意味を身をもって知ることになった。
その日は、友人と二人で山奥のキャンプ場へ向かっていた。夏の終わり、虫の音が響き合い、涼しい風が木々を揺らす気持ちのいい夜だった。キャンプ場は集落から車で30分ほど。舗装されていない細い道を進み、懐中電灯の明かりだけを頼りにテントを張った。友人は焚き火を囲みながら、「こんな静かな場所で何か怖い話でもしない?」と笑いものびのびと提案してきた。私は祖母の警告を思い出しつつも、「まぁ、いいか」と軽い気持ちで頷いた。
友人が語り始めたのは、ありきたりな怪談だった。山で迷った男が幽霊に導かれ、帰れなくなったという話。私はそれを聞いて笑いもの、「そんなのありえないよ」とからかった。だが、その時、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。キーンという金属を擦るような高音と、低く唸るような響きが混ざり合った不気味な音だ。友人も気づいたようで、「何だこれ?」と顔をしかめた。私たちは耳を澄ませたが、音は次第に近づいてくるようだった。
「風の音じゃないか?」と友人が言ったが、私の胸には言いようのない不安が広がっていた。祖母の言葉が頭をよぎる。「異界の者」とは一体何なのか。まさかそんなものが実在するはずはない。それでも、音が近づくにつれ、私の心臓は早鐘を打っていた。友人は立ち上がり、「ちょっと見てくる」と懐中電灯を手に歩き出した。私は「やめなよ!」と叫んだが、彼は笑って「ビビりすぎだろ」と背を向けた。
彼が森の奥へ消えてから数分後、音がピタリと止んだ。静寂が辺りを包み、虫の声さえ聞こえなくなった。私はテントの中で膝を抱え、彼の帰りを待った。しかし、10分経っても、20分経っても戻ってこない。不安が限界に達した私は、震える手で懐中電灯を握り、彼を探しに出た。森の中は異様に暗く、木々の間を縫うように進む私の足音だけが響いた。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。そこには古びた鳥居が立っていた。赤い塗装は剥げ落ち、苔に覆われたその姿は、長い間人の手が入っていないことを物語っていた。鳥居の先には石段が続き、その上には小さな祠が見えた。私は鳥居を見上げながら、「こんなところに神社が?」と呟いた。そして、その時、石段の上から誰かが降りてくる気配を感じた。
懐中電灯を向けると、そこには友人が立っていた。だが、何かがおかしかった。彼の目は虚ろで、口元には不自然な笑みが浮かんでいる。「お前、どうしたんだ?」と声をかけると、彼はゆっくりと私の方へ歩いてきた。だが、その足音が妙に軽く、まるで地面に触れていないかのようだった。私は後ずさりながら、「おい、冗談ならやめてくれ」と叫んだ。すると、彼は突然立ち止まり、首を不自然に傾けてこう言った。「お前もこっちへおいで。楽しいよ」。
その声は確かに友人のものだったが、どこか機械的で、感情が込められていないように聞こえた。私は恐怖に駆られ、踵を返して走り出した。背後からは彼の声が追いかけてくる。「逃げても無駄だよ。お前もこっちへ来るんだ」。森の中を必死に走りながら、私は気づいた。足音が一つじゃない。複数の何かが私を追っているような気配がするのだ。
どれだけ走ったかわからない。息が上がり、足がもつれそうになった時、ようやくキャンプ場に戻ってきた。だが、そこにあったはずのテントは消え、焚き火の跡さえ見当たらない。私は呆然と立ち尽くし、周囲を見回した。すると、遠くにまたあの奇妙な音が聞こえてきた。今度は複数重なり合い、まるで嘲笑うような響きだった。
その後、私はどうにか集落まで戻り、助けを求めた。翌朝、村人たちと一緒にキャンプ場へ向かったが、そこには何の痕跡も残っていなかった。友人の姿も見つからず、警察に届け出たものの、捜索は難航した。私はあの夜のことを誰にも詳しく話せなかった。話せば話すほど、自分が狂っていると思われる気がしたからだ。
それから数週間後、私はある夢を見た。友人が鳥居の前に立ち、私に向かって手を差し伸べている夢だ。「こっちへおいで」と繰り返す彼の声は現実のように鮮明で、私は汗だくで目を覚ました。その日から、私は夜になるとあの奇妙な音を聞くようになった。窓の外から、壁の向こうから、あるいは頭の中から響いてくるのだ。
最近では、家の近くで鳥居のような影を見た気がする。昼間でも薄暗い場所に、それはぼんやりと浮かんでいる。友人が消えたあの日から、私の中で何かが変わった。異界の扉が開き、私は少しずつそちらへ引き寄せられているのかもしれない。今、この話を書いている私の背後で、またあの音が聞こえる。キーンと低く唸る音。そして、誰かが囁く声。「お前もこっちへおいで」。
私はもう逃げられないのかもしれない。