朽ち果てた信号機の叫び

SFホラー

佐賀県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな集落に、その話は始まる。今から10年前、2015年の夏のことだ。俺は当時、大学で民俗学を専攻する学生で、地方の伝説や風習を調べるフィールドワークのために、この僻地に足を踏み入れた。集落に着いたのは夕暮れ時で、空は茜色に染まり、遠くでカラスの鳴き声が響いていた。

集落は寂れていて、住民はわずか10人ほど。高齢者ばかりで、若者は皆、都会へ出てしまったらしい。俺を迎え入れてくれたのは、70歳を過ぎた老女だった。彼女は皺だらけの手で茶を淹れながら、「ここは昔から変わらんよ」と寂しげに笑った。その夜、彼女の家に泊まることになり、古びた座敷に布団を敷いて横になった。窓の外からは虫の声が聞こえ、時折、風が木々を揺らす音が混じる。静かすぎる夜だった。

翌朝、集落の外れにある古い信号機の話を耳にした。住民たちは「あそこには近づかん方がいい」と口を揃えた。信号機は、数十年前に県道が通る計画で設置されたものの、結局道は作られず、森の入り口にポツンと残されたものらしい。電源もないはずなのに、「時々、赤く光る」と老女が囁くように言った。その目には、恐怖とも諦めともつかぬ色が浮かんでいた。

好奇心に駆られた俺は、昼過ぎにその信号機を見に行くことにした。集落から少し歩くと、舗装もされていない細い道が森へと続いている。木々の間を抜けると、そこに確かに信号機は立っていた。錆びつき、塗装が剥げ落ちた姿は、まるで長い年月を耐え抜いた亡魂のようだった。緑、黄色、赤のレンズは曇り、どれも死んだように暗いままで、確かに電源が通っている様子はない。俺はカメラを手に写真を撮りながら、何か奇妙な違和感を覚えた。森が静かすぎるのだ。鳥の声も、風の音さえも聞こえない。

その夜、老女の家で撮った写真を見返していると、背筋が凍りついた。信号機の赤いレンズが、写真の中でぼんやりと光っている。レンズ自体は曇っていたはずなのに、まるで内側から灯りが点いたかのように、不気味な赤が浮かんでいた。俺は慌ててカメラのデータを確認したが、他の写真ではそんなことはなかった。動揺しながら老女に話すと、彼女は顔を強張らせ、「あんた、あそこに行ったのか」と呟いた。そして、震える声でこう続けた。「あれは人間のものじゃないよ。あの信号機は、夜になると動き出すんだ」

彼女の話によると、信号機はかつて、この森で起きた事故と繋がっているらしい。数十年前、県道の工事のために派遣された作業員たちが、森の中で次々と行方不明になった。原因不明のまま捜索は打ち切られ、やがて信号機だけが残された。だが、それ以降、夜になると信号機が勝手に光り、近くを通った者をどこかへ導くように誘うのだという。「誘われたら最後、二度と戻ってこられんよ」と彼女は目を伏せた。

俺は半信半疑だったが、好奇心と恐怖が混じり合い、どうしても確かめたくなった。その夜、懐中電灯を手に、再び信号機へと向かった。月明かりが薄く森を照らし、木々の影が揺れる中、信号機は静かに佇んでいた。時刻は深夜0時を回った頃。すると突然、耳をつんざくような金属音が響き、信号機の赤いレンズが点灯した。だが、それはただの光ではない。赤い光は脈打つように明滅し、まるで生き物の鼓動のようだった。

俺は凍りついたまま動けなかった。すると、信号機の足元から黒い影が這い出し、ゆっくりと俺の方へ近づいてきた。それは人の形をしていたが、顔はなく、ただ黒い霧のようなものが漂っているだけだった。影は俺の足元まで来ると、信号機の方を指さし、低い唸り声のようなものを発した。恐怖で頭が真っ白になり、俺は踵を返して走り出した。背後からは、金属が擦れるような不気味な音と、影の唸り声が追いかけてくる。

どれだけ走ったかわからない。息が切れ、足がもつれる中、なんとか集落に戻った。振り返ると、森の入り口に赤い光がぼんやりと浮かんでいた。家に戻ると、老女は俺の顔を見て全てを悟ったようだった。「あんた、運が良かったね」とだけ言い、それ以上は何も語らなかった。

翌朝、俺は荷物をまとめ、集落を後にした。帰りのバスの中で、あの信号機のことを考えるたび、冷や汗が止まらなかった。あれは本当にこの世のものだったのか。科学では説明できない何かだったのか。それから数日後、大学の研究室で写真を再度確認した時、最後の衝撃が待っていた。信号機の写真に映っていた赤い光の中に、ぼんやりと人の顔のような形が浮かんでいたのだ。それは苦悶に歪んだ表情で、まるで助けを求めるようにこちらを見つめていた。

それ以来、俺はあの集落に近づいていない。だが、今でも時折、夢の中であの赤い光と影が現れる。あの信号機は、今も森の中で静かに光り続けているのだろうか。そして、俺を再び誘う日を待っているのだろうか。

タイトルとURLをコピーしました