大正の時代、ある秋の夜。私は秋田の山深い集落に足を踏み入れた。そこは、木々がうっそうと茂り、昼間でも薄暗い場所だった。村人たちはみな朴訥で、よそ者の私にも穏やかに接してくれたが、その瞳の奥にはどこか怯えたような影が宿っていた。
その夜、私は村はずれの古い家に泊めてもらった。家主は寡黙な老人で、私に一部屋を与えると、「夜は戸を閉めておけ」とだけ言い残して去った。風が木々を揺らし、時折遠くで獣の鳴き声が響く。都会の喧騒とは無縁の静寂に、私は眠りに落ちた。
どれほど時間が経っただろうか。ふと、耳をつんざくような泣き声で目が覚めた。それは女の声とも子の声ともつかぬ、ひどく悲しげで、胸を締め付けるような音だった。家の外から聞こえてくる。私は布団の中で身を固くし、息を殺した。泣き声は次第に近づき、やがて家のすぐそばで止まった。木の戸がガタガタと震え、まるで何かが入ろうとしているかのようだった。
恐る恐る戸の隙間から外を覗くと、そこには誰もいなかった。ただ、冷たい風が吹き抜けるだけだ。しかし、泣き声は止まず、むしろ一層激しくなった。私は耳を塞いだが、その音は頭の中に直接響いてくるようだった。心臓が早鐘を打ち、汗が全身を濡らした。
やがて夜が明け、泣き声は消えた。私は疲れ果てながらも老人に昨夜のことを尋ねた。彼は目を伏せ、しばらく黙っていた後、重い口を開いた。「あれは、昔この村であった出来事の名残だよ」と。
彼の話によると、大正の初め頃、この村に一人の女が流れ着いた。身重で、どこから来たのかもわからないその女は、村人たちに助けられ、小さな小屋で暮らすようになった。だが、彼女が産んだ子はすぐに亡くなり、女は悲しみのあまり正気を失った。毎夜、子を探して山を彷徨い、泣き叫ぶ姿が目撃されるようになったという。ある夜、彼女は山奥で姿を消し、二度と見つからなかった。それ以来、村ではその泣き声が聞こえる夜があるのだと。
私はぞっとした。昨夜の声が、その亡魂のものだったのか。老人はさらに続けた。「あれは子を求める声だ。近くに子がいると感じると、戸を叩いて入ろうとする。昔は子連れの旅人が消えたこともあったよ」。その言葉に、私の背筋が凍りついた。もし私が子連れだったら、どうなっていたのだろう。
その後も数日、村に滞在したが、あの泣き声は毎夜聞こえた。時には遠く、時には近く。ある晩、私は我慢できず、泣き声のする方へ懐中電灯を持って出てみた。木々の間を進むと、ぼんやりとした人影が見えた。ぼろぼろの着物を纏い、長い髪が顔を覆っている。彼女がこちらを向いた瞬間、懐中電灯の光に照らされたその顔は、目が抉られたように真っ黒で、口だけが異様に大きく裂けていた。
私は悲鳴を上げて逃げ帰った。家に飛び込み、戸を固く閉ざすと、泣き声は一晩中家の周りを徘徊するように響き続けた。朝になり、村を出る決意を固めた私は、老人に別れを告げた。彼はただ静かに頷き、「気をつけてな」とだけ言った。
村を後にする道すがら、私は背後に何かの気配を感じた。振り返ると、遠くの木々の間にあの女が立っていた。じっとこちらを見つめるその姿に、私は足を速めた。泣き声は追ってくるようだったが、やがて山を下りるにつれ聞こえなくなった。
それから何年も経つが、あの夜の恐怖は忘れられない。秋田の山奥には、今も彼女が彷徨っているのだろうか。子を求める亡魂が、夜ごとに泣き叫び、旅人の心を凍りつかせる。私は二度とあの村には近づかないと心に誓った。