30年前の夏、私はまだ高校生だった。田舎町の静かな夜、蝉の声が響き合い、どこか懐かしい風が吹き抜ける季節。私の住む町は、海と山に挟まれた小さな集落で、近所付き合いが濃く、誰もが顔見知りだった。
その日、友人たちと肝試しに行くことになった。目的地は、町外れの山奥にある古い廃屋だ。地元では「入るな」と囁かれていた場所で、昔、猟師が山で何かを目撃して発狂し、そのまま廃屋に籠って死んだという噂があった。私は怖がりだったが、仲間外れになるのが嫌で、渋々ついていくことにした。
夜8時過ぎ、私たち5人は懐中電灯を手に廃屋へと向かった。山道は舗装されておらず、足元がぐずぐずと崩れるたび、心臓が跳ねた。木々の間を抜ける風が妙に冷たく、時折、遠くで何かが枝を踏む音が聞こえた気がして、私は何度も振り返った。でも、誰も何も言わず、ただ黙々と歩き続けた。
廃屋に着いたとき、月明かりがその姿を薄く照らし出していた。屋根は半分崩れ、窓枠にはガラスがなく、黒い穴のようにぽっかりと口を開けている。壁には蔦が絡まり、まるで生き物のように家全体を締め付けているようだった。「やめようよ」と私が小さく呟くと、リーダー格の友人が笑いものだろ、と肩を叩いてきた。
中に入ると、埃とカビの臭いが鼻をついた。床板は腐りかけ、歩くたびに軋む音が響く。懐中電灯の光を頼りに進むと、居間らしき部屋にたどり着いた。そこには古いテーブルと椅子が残され、壁には何かで引っ掻かれたような無数の傷跡が走っていた。爪痕のようで、深く、乱暴に刻まれている。私は背筋が寒くなり、「これ、動物じゃないよね」と呟いた。友人の一人が「まさか人間がこんなの残すわけないだろ」と笑ったが、その声にはどこか震えが混じっていた。
その時、奥の部屋からかすかな音が聞こえた。カタッ、カタッ、と何かが硬い床を叩くような音だ。私たちは顔を見合わせ、息を殺して耳を澄ました。音は徐々に近づき、カタカタカタッとリズムを刻み始めた。友人の一人が「誰かいるのか?」と叫んだが、返事はない。代わりに、暗闇の奥から異様な臭いが漂ってきた。生ゴミと血が混じったような、吐き気を催す臭いだ。
突然、懐中電灯の光が一瞬揺れ、壁に映った影が動いた。人の形ではない。長い腕と異様に曲がった指、そして異常に尖った頭部。影は一瞬で消えたが、私たちは全員それを見ていた。「出よう!」誰かが叫び、私たちは一斉に出口へ走った。だが、来たはずの玄関が見当たらない。あるはずの場所にあったのは、ただの板張りの壁だった。
パニックになりながら別の出口を探していると、再びあの音が響き始めた。今度はすぐ近くからだ。カタカタカタッ、カタカタカタッ。振り返った瞬間、暗闇の中で何かが蠢いているのが見えた。懐中電灯を向けると、そこには長い爪を持つ手が床を這っていた。人間の手ではない。節くれ立ち、皮膚が剥がれ落ちたようなグロテスクな手。そいつはゆっくりと顔を上げ、私たちを見た。目はなく、ただ黒い穴が二つ空いているだけ。口は裂けたように横に広がり、ギザギザの歯が覗いていた。
悲鳴を上げた瞬間、そいつが飛びかかってきた。友人の一人が腕を掴まれ、引きずられるように暗闇へ消えた。私たちは必死に逃げ、壁を叩き、叫びながら出口を探した。どれだけ時間が経ったのかわからない。気がつけば、私は一人で山道を走っていた。背後で友たちの叫び声が遠ざかり、やがて静寂が訪れた。
翌朝、私は自宅の庭で倒れているところを発見された。警察に事情を話したが、誰も信じてくれなかった。廃屋に駆けつけた捜査員は、確かに爪痕や血痕を見つけたが、友人たちの遺体は見つからなかった。ただ、現場には異様な臭いが残り、捜査員の一人が「こんな臭い、初めてだ」と呟いたのを覚えている。
それから私は、毎夜あの音を聞くようになった。カタカタカタッ、と窓の外から響く音。ある晩、耐えきれずカーテンを開けると、そこにはあの黒い目が私をじっと見つめていた。逃げても無駄だ、と悟った瞬間、そいつは窓ガラスを突き破り、私に迫ってきた。
今、この話を書いている私の背後で、またあの音が聞こえる。カタカタカタッ。もうすぐだ。そいつが来る。私の爪痕が、この家のどこかに残るのかもしれない。