それはまだ私が若く、世の中の不思議を信じていなかった頃の話だ。
数十年前のある夏の夜、私は友人と共に埼玉の山奥へと車を走らせていた。目的はただの肝試しだった。地元の噂で、ある峠道に夜な夜な奇妙な影が現れるという話を聞きつけ、好奇心に駆られたのだ。峠は人家から遠く離れ、鬱蒼とした木々に囲まれていた。昼間でも薄暗く、夜ともなれば街灯ひとつない闇が広がる場所だった。助手席の友人は地図を手に、懐中電灯で照らしながら道を案内していたが、次第にその声が小さくなっていくのが分かった。
「おい、どうした?」
私が尋ねると、彼は顔を上げずに呟いた。
「この道…何かおかしい。さっきから同じ場所をぐるぐる回ってる気がする」
確かに、車窓から見える景色は単調で、木々の間を抜ける風の音だけが不気味に響いていた。私は笑いものだと思いながらも、どこか胸騒ぎがした。時計を見ると、すでに深夜を回っていた。峠の頂上付近に差し掛かった時、突然、車のエンジンがガタガタと異音を立てて止まった。慌ててキーを回すが、うんともすんとも言わない。友人と顔を見合わせた瞬間、フロントガラスに何か白いものが映った気がした。
「今…何か見なかったか?」
私がそう言うと、友人は首を振ったが、その目には明らかな怯えが浮かんでいた。懐中電灯を手に車外へ出ると、冷たい風が頬を叩き、森の奥から低いうめき声のような音が聞こえてきた。私はそれを風の音だと自分に言い聞かせたが、次の瞬間、背筋が凍りついた。暗闇の中、道の先に白い着物を着た女が立っていたのだ。
長い黒髪が顔を覆い、その姿はまるで浮いているかのように不自然だった。友人もそれに気づき、懐中電灯を向けようとしたが、手が震えてうまく光を当てられない。私は咄嗟に車に戻ろうとしたが、足が鉛のように重く、動かない。女がゆっくりとこちらに近づいてくるのが分かった。顔は見えないが、彼女の周囲だけが異様に冷たく、吐く息が白く凍りついた。
「逃げろ!」
友人が叫び、ようやく体が動き出した。私は車に飛び乗り、ドアを叩いて友人を急かした。しかし、彼が助手席に乗り込む直前、女の姿が一瞬にして消えた。驚きながらもエンジンをかけ直すと、今度はすんなりと動き出した。峠を下る間、私たちは一言も喋らず、ただただ冷や汗を流しながら車を飛ばした。
家に着いたのは明け方近くだった。友人は放心状態で、車から降りるとそのまま部屋に閉じこもってしまった。私は一睡もできず、夜が明けるのを待った。翌日、友人に昨夜のことを尋ねると、彼は震える声でこう言った。
「あの時、女が消えた瞬間…俺の背中に冷たい手が触れたんだ」
その言葉を聞いて、私はぞっとした。彼が車に乗り込む前、確かに何か白いものが彼の背後に一瞬映ったのを思い出したからだ。それから数日後、友人は原因不明の高熱で寝込み、うわ言で「あの女が…来る…」と繰り返していた。彼はその後回復したが、二度とあの峠の話をすることはなかった。
私自身もその体験を忘れようとしたが、ある日、偶然耳にした話が再び恐怖を呼び覚ました。地元の古老が語ったところによると、その峠では昔、身寄りのない女が崖から身を投げたという。以来、夜になると彼女の亡魂が彷徨い、通りかかった者を道連れにしようとするのだと。彼女は生前、誰にも助けられず孤独に死に、その怨念が峠に留まっているらしい。
それからというもの、私は夜道を車で走るたびにあの白い影が脳裏をよぎる。あの女がまだ私たちを探しているのではないかと思うと、今でも眠れない夜がある。峠の闇は、私の心に永遠に刻み込まれたのだ。