北海道の冬は厳しい。数十年前、私がまだ幼い頃、祖父母の家に預けられたことがあった。そこは深い森に囲まれた小さな集落で、雪が降り積もり、夜になるとまるで世界が閉ざされたような静寂が訪れる場所だった。祖父は猟師で、よく森の奥深くへ出かけては獲物を持ち帰ってきた。そんな祖父が、ある冬の夜、奇妙な話を聞かせてくれた。
その夜、囲炉裏の火がパチパチと音を立てる中、祖父は目を細めて言った。「お前、森の奥にある古い祠を見たことあるか?」私は首を振った。集落の子供たちの間では、その祠には近づくなと囁かれていた。理由を聞くと誰も答えず、ただ「何かいるから」とだけ言うのだ。祖父は続けた。「あそこには昔、異界の入り口があるって言われてた。猟師仲間でな、若い頃に一度だけ近づいたことがあったんだ。」
祖父の話によると、その祠は苔むした石でできた小さなもので、森の奥、獣道すら途切れるような場所にひっそりと佇んでいた。周囲には不思議な空気が漂い、鳥の声すら聞こえなかったという。仲間の一人が面白半分に祠に近づき、中を覗こうとした瞬間、突然風が吹き荒れ、木々がまるで怒ったように揺れ始めた。驚いた彼らが後ずさると、祠の奥から低い唸り声のようなものが聞こえてきた。人間の声とも獣の声ともつかない、ぞっとする響きだったそうだ。
「それからだよ」と祖父は声を潜めた。「妙なことが起き始めたのは。」帰り道、彼らは自分たちの足跡が消えていることに気づいた。雪の上にくっきりと残っていたはずの足跡が、まるで誰かに掻き消されたように跡形もなく消えていた。さらに、集落に戻るまでの間、背後から何かがついてくるような気配を感じたという。振り返っても誰もいない。ただ、雪の表面が時折、かすかに揺れるような影が映るだけだった。
私は祖父の話に引き込まれながらも、どこかで半信半疑だった。子供心に、そんな怖い話は作りものだろうと思っていたのだ。だが、その夜、私は自分の目で何かを見てしまった。
祖父母の家は古い木造の建物で、夜になると軒下の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。私は布団にくるまりながら、窓の外を何気なく眺めていた。雪が月明かりに照らされ、キラキラと光っているのが見えた。その時、遠くの森の縁に何か動くものがあるのに気づいた。最初は鹿か何かだろうと思った。だが、よく見ると、それは二本脚で立っていた。人のような形をしていたが、異様に細長く、頭が妙に傾いているように見えた。
息を呑んで目を凝らすと、その影はゆっくりとこちらへ近づいてくるようだった。足音は聞こえない。雪を踏む音すらしない。ただ、静かに、だが確実に近づいてくる。私は恐怖で体が硬直し、布団をかぶって目を閉じた。どれくらい時間が経ったかわからないが、耳を澄ますと、微かに窓の外から「カタ…カタ…」という音が聞こえてきた。木の枝が風に揺れる音とも、誰かが窓を叩く音とも取れる、不気味なリズムだった。
翌朝、恐る恐る窓の外を見たが、そこには何もなかった。雪の上に足跡もなければ、影の痕跡もない。ただ、窓ガラスに薄っすらと曇ったような跡が残っていて、それが手の形に見えた気がした。私は祖父にそのことを話したが、彼は黙って囲炉裏の火をかき混ぜるだけだった。その表情は、どこか諦めたような、懐かしい恐怖を思い出したようなものだった。
それから数日後、集落で妙な噂が広まり始めた。森の奥で猟をしていた男が、突然姿を消したというのだ。猟仲間が探しに行ったが、銃と毛皮のコートだけが雪の上に残されていた。足跡はなく、まるでその男が忽然と消えたかのようだった。村の古老たちは「あれだよ」と囁き合い、祠の話を持ち出した。異界のものが現れたのだ、と。
私はその冬を祖父母の家で過ごした後、街に戻った。だが、あの影と音、そして祖父の話は今でも脳裏に焼き付いている。大人になった今でも、雪の降る夜には窓の外を無意識に見てしまう。そして時折、あの「カタ…カタ…」という音が聞こえる気がして、背筋が凍るのだ。
あの祠は今も森の奥に佇んでいるのだろうか。そして、あの影はまだ誰かを待ち続けているのだろうか。北海道の冬は、ただ寒いだけではない。そこには、私たちの知らない何かが潜んでいるのかもしれない。