宮崎県の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは深い霧が常に立ち込め、外界との繋がりが薄い場所として知られていた。住民たちは質素な暮らしを営み、夜になると決まって家に閉じこもり、外界の音に耳を澄ませていた。なぜなら、この集落には古くから言い伝えられる「霧の夜には決して外に出るな」という掟があったからだ。
ある夏の終わり、集落に一人の若者が訪れた。彼は都会からやってきたらしい旅行者で、どこか落ち着かない様子だった。住民たちは彼を冷たく見つめ、早々に立ち去るよう促したが、若者は「ただ一晩泊めてほしい」と懇願した。仕方なく、集落の端にある古びた小屋に彼を泊めることにした。だが、その夜は特に霧が濃く、空気が異様に重かった。
若者は小屋の中で眠りにつこうとしたが、窓の外から聞こえる奇妙な音に目を覚ました。それは低い唸り声のようなもので、時折、地面を這うような不気味な擦過音が混じっていた。彼は恐る恐る窓に近づき、霧の中を覗き込んだ。そこには何も見えない。ただ、濃い霧が蠢いているように感じられた。だが、次の瞬間、霧の奥で何かが動いた。細長い影が一瞬だけ姿を現し、すぐに消えた。
心臓が激しく鼓動する中、彼は小屋の扉を固く閉め、明かりを消して息を潜めた。すると、擦過音が徐々に近づいてくる。まるで何かが小屋の周りを這い回っているかのようだった。音は壁を這い上がり、屋根の上を移動し、やがて窓の縁に止まった。若者は布団の中で震えながら祈った。「見つかりませんように」と。
しかし、その願いは叶わなかった。窓の外から突然、ガラスを叩く音が響いた。鈍く、重い音。叩くというより、何かが圧迫しているような不自然な力だった。彼は意を決して顔を上げた。そして見た。窓の向こうに、霧に紛れて浮かぶ異形の姿を。それは人間の形をしていたが、明らかに人間ではなかった。腕が異常に長く、関節が不自然に曲がり、顔には目も鼻もなく、ただ黒い穴が開いているだけだった。その穴から、かすかな赤い光が漏れていた。
若者は叫び声を上げ、小屋の隅に逃げ込んだ。だが、異形のものは窓を叩き続け、やがてガラスがひび割れた。冷たい風が吹き込み、霧が小屋の中へと侵入してきた。その瞬間、彼は異様な感覚に襲われた。体が浮き上がるような錯覚と共に、頭の中に直接響く声が聞こえた。「お前はここに属する」と。
翌朝、集落の住民が小屋を訪れると、そこに若者の姿はなかった。布団は乱れ、窓は割れ、床には奇妙な粘液が残されていた。住民たちは顔を見合わせ、無言で小屋を後にした。彼らにとって、これは珍しいことではなかった。この集落では、霧の夜に外から来た者が消えることが度々あったのだ。そして、そのたびに住民たちは口を揃えて言った。「あれに選ばれたんだ」と。
それから数日後、集落の子供が山道で不思議なものを見つけた。それは若者が持っていたらしい荷物だった。中にはカメラがあり、電源を入れると最後に撮影された映像が再生された。そこには霧の中で蠢く無数の影が映っていた。細長い腕、歪んだ体、顔の黒い穴。そして、その中央に、若者自身の姿があった。彼はカメラを手に持ったまま、ゆっくりと霧の中へと歩いていく。映像の最後、彼の顔がアップになり、目が赤く光っていた。
その映像を見た子供は、恐怖のあまりカメラを落とし、逃げ帰った。だが、それ以降、集落の霧はさらに濃くなり、夜ごとに出没する影の数も増えていった。住民たちは気づき始めていた。あの若者が消えた夜、何かがこの地に根付いてしまったのだと。そして、それは単なる怪奇現象ではない。科学では説明できない、別の次元から来た「何か」が、この集落を侵食し始めているのではないかと。
ある老人が語った。「あれは昔、宇宙から落ちてきたものだ。霧はそれを隠すための幕なんだよ」。彼の目は遠くを見据え、恐怖と諦めが混じった表情を浮かべていた。集落の外れには、今もなお異様な形をした岩が転がっている。それは金属のような質感を持ち、触れると微かに振動する。科学者たちがかつて調査に来たが、結局何も分からず立ち去ったという。
夜が更けるたび、霧は集落を包み込み、異形の影たちは数を増していく。住民たちは家に閉じこもり、祈りを捧げるしかなかった。だが、最近では家の中にも霧が忍び込むようになり、壁に奇妙な模様が浮かび上がるようになった。それはまるで、別の世界への入り口が開かれつつあるかのようだった。
そして、ある夜、集落全体が異様な静寂に包まれた。霧が晴れ、星空が広がった。住民たちは安堵のため息をついたが、それは束の間の希望に過ぎなかった。空を見上げた瞬間、彼らは凍りついた。星々の間に、巨大な黒い影が浮かんでいた。それは生き物のように蠢き、ゆっくりと地上へと降りてくる。影の中には無数の赤い光が点滅し、集落全体を照らし出した。
その夜を境に、集落は地図から消えた。訪れる者も、住民の消息を知る者もいなくなった。ただ、霧が立ち込める山奥には、今もなお不気味な唸り声が響き、異形の影が蠢いているという。そこに足を踏み入れた者は、二度と戻ってこない。そして、どこからともなく聞こえる声が囁く。「お前もここに属する」と。
この話は、後に噂として広がり、ある者たちが調査に向かった。しかし、彼らが持ち帰ったのは、奇妙な粘液にまみれた機材と、恐怖で震える表情だけだった。カメラには、最後に映った映像が残されていた。霧の中、無数の影がこちらを見つめ、赤い光が点滅する。そして、その中央に、調査隊の姿が映り込んでいた。彼らの目もまた、赤く輝いていたのだ。