薄闇に響く臨死の足音

ホラー

それは、今から10年前の秋のことだった。

島根県の山深い集落に住む私は、当時まだ20代半ば。若さゆえの好奇心から、村の外れにある古い神社へと足を踏み入れた。そこは、子供の頃から「入るな」と言い伝えられてきた場所だ。苔むした石段を登り、朽ちかけた鳥居をくぐると、異様な静けさが辺りを包んでいた。風さえも止まり、虫の声すら聞こえない。ただ、遠くで何かが地面を叩くような音が、微かに響いていた。

神社の中は、想像以上に荒れ果てていた。社の屋根は半分崩れ、供え物の皿にはカビの生えた飯が放置されている。私は興味本位で、社の裏に回ってみた。そこには、苔に覆われた古い井戸があった。蓋はなく、黒々とした穴が口を開けている。覗き込むと、底が見えないほどの闇が広がり、なぜか胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

その時だった。背後で、「ドンッ」という重い音がした。振り返ると、誰もいない。ただ、社の扉がわずかに揺れている。私は一瞬、風か何かだろうと思ったが、空気は依然として動いていなかった。不気味さを感じつつも、さらに近づいてみると、扉の隙間から何かが見えた。白い布のようなものが、ゆっくりと揺れている。目を凝らすと、それは布ではなく、人の顔だった。青白く、目が落ちくぼみ、口が半開きになった顔。私の動きに合わせて、そいつがこちらをじっと見つめている気がした。

心臓が跳ね上がり、思わず後ずさった瞬間、足が何かに引っかかり、私は井戸の縁に倒れ込んだ。バランスを崩し、頭から闇の中へ落ちていく。落ちる間、冷たい空気が全身を包み、耳元で誰かの囁きのような音が聞こえた。「おいで…おいで…」。それは、低く、粘つくような声だった。

気がつくと、私は井戸の底にいた。どうやって助かったのかわからない。ただ、仰向けに倒れた私の視界には、井戸の口から差し込む薄い光が見えた。立ち上がろうとしたが、体が動かない。まるで何かに押さえつけられているようだった。その時、首筋に冷たい感触が走った。ゆっくりと視線を動かすと、そこには白い手があった。骨ばった指が、私の首を這うように動いている。恐怖で声も出せず、ただ息を殺して耐えた。

どれくらい時間が経ったのかわからない。だが、次に気づいた時、私は井戸の外にいた。夕暮れ時で、空は赤く染まり、遠くでカラスの鳴き声が響いている。私は這うようにして神社を後にした。家に帰り着いた時には、全身が泥と汗で汚れていた。鏡を見ると、首筋に赤い痕が残っていた。指の形をした、くっきりと浮かんだ痕だった。

それから数日後、村の古老にその話をすると、彼は顔を曇らせた。「あそこは、昔、死にきれなかった者たちが集まる場所だ。井戸に落ちた者は、必ず何かを持ってこられる」と。持ってこられる、という言葉が何を意味するのか、その時はわからなかった。

だが、その夜から異変が始まった。毎晩、枕元に誰かが立つ気配がする。目を閉じていても、じっと見られている感覚が消えない。ある晩、耐えきれず目を開けると、そこにはあの青白い顔があった。井戸の中で見たものと同じ顔が、私の顔のすぐ上に浮かんでいた。口がゆっくり開き、「一緒に…」と呟いた瞬間、私は気を失った。

翌朝、目覚めた時、体の異様な重さに気づいた。鏡を見ると、首の痕がさらに濃くなっていた。そして、背中にも同じような痕が増えていた。それからというもの、私は夜が来るたびに恐怖に震えた。眠ればあの顔が現れ、目を覚ませば体に新たな痕が刻まれる。村の医者に診せても原因はわからず、神主に祈祷を頼んでも効果はなかった。

ある日、限界を感じた私は、再び神社へと向かった。あの井戸に何か答えがあるかもしれないと思ったのだ。昼間だったが、神社は前よりもさらに薄暗く、まるで時間が止まったかのようだった。井戸の前に立つと、中からかすかな音が聞こえてきた。誰かが這うような、湿った音。そして、井戸の縁に手がかかった。白く、骨ばった手が、ゆっくりと這い上がってくる。私は恐怖で動けなかった。

その手が私の足首を掴んだ瞬間、意識が遠のいた。次に目を開けた時、私は病院のベッドにいた。村人によると、私は神社で倒れているところを発見されたらしい。足首には、くっきりと手の形をした痣が残っていた。医者は「低体温と脱水症状で危なかった」と言ったが、私はそれが全てではないことを知っていた。

退院後、私は村を出た。あの場所にいる限り、何かが私を追い続けると感じたからだ。それでも、時折、夜中に目を覚ますと、首筋に冷たい感触が蘇る。鏡を見れば、薄れたはずの痕が再び浮かび上がっていることがある。あの井戸で見たもの、触れたものは、私の一部となってしまったのかもしれない。そして今でも、どこかで、あの青白い顔が私を待っている気がしてならない。

あれから10年。私はあの体験を誰にも話さず、心の奥に封じ込めてきた。だが、こうして文字にすることで、少しでも恐怖から解放されることを願っている。島根の山奥に眠るあの神社は、今も静かに佇んでいるのだろうか。そして、あの井戸は、新たな犠牲者を待ち続けているのだろうか。

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