それは雨の降りしきる夜だった。
香川の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、両親と妹と共に古びた家で暮らしていた。あの頃、集落には僅かばかりの家が点在し、夜になると辺りは深い静寂に包まれた。30年前のその日も、いつもと変わらない夜が訪れるはずだった。
夕方から降り始めた雨は、次第に勢いを増し、屋根を叩く音が不気味なリズムを刻んでいた。私は炬燵に潜り込み、母が台所で夕飯の支度をする音を聞きながら、妹と他愛もない話をしていた。父は仕事で遅くなる日だった。窓の外では、風に煽られた木々がざわめき、時折雷鳴が遠くで唸りを上げていた。
その時だった。突然、家の裏手にある縁側の方から、奇妙な音が聞こえてきた。
ドン、ドン、ドン。
それはまるで、誰かがゆっくりと、しかし確実に歩いているような足音だった。雨の音に混じって聞こえるその響きは、妙に重たく、低く、家の中にまで響いてくる。私は妹と顔を見合わせた。彼女の目には、かすかな不安が浮かんでいた。
「ねえ、誰かいるの?」妹が小声で囁いた。
「まさか。こんな時間に、こんな雨の中で?」私は笑って否定したものの、心のどこかで嫌な予感が広がっていた。母も台所から顔を出し、「何か聞こえた?」と首をかしげた。私は立ち上がり、縁側に続く障子に近づいた。そっと手を伸ばし、障子を僅かに開けて外を覗いた。
そこには誰もいなかった。雨に濡れた縁側の板と、その向こうに広がる闇だけが目に入った。しかし、足音は止まらない。ドン、ドン、ドンと、まるで家の周りをぐるりと回るように聞こえてくる。私は息を呑み、障子を閉めた。
「気のせいだよ。風か何かだろ」と自分に言い聞かせたが、母も妹も不安そうな顔をしていた。その夜、父が帰宅するまでは何事もなく過ぎた。父はびしょ濡れで帰ってきて、「こんな日に外に出るなんて物好きはいないよ」と笑った。私たちは安心して眠りについた。
だが、次の夜もその音は聞こえた。
今度はもっと近く、もっと鮮明に。ドン、ドン、ドン。縁側を歩く音が、家の中を震わせる。私は布団の中で目を閉じ、耳を塞いだが、無駄だった。音は頭の中にまで響き渡り、眠りを妨げた。妹は怯えて私の布団に潜り込んできた。母も目を覚まし、「おかしいね」と呟いた。父は起き上がり、懐中電灯を持って外を見に行ったが、何も見つからなかった。
「狐か狸でもいるんじゃないか」と父は言ったが、その口調にはどこか自信が欠けていた。
三日目の夜、事態はさらに異様な方向へと進んだ。いつものように足音が響き始めたとき、私は我慢できずに布団から飛び出し、縁側に駆け寄った。障子を開け放ち、懐中電灯を手に外へ飛び出した。雨は小降りになっていたが、足元はぬかるみ、冷たい水が靴に染み込んだ。
「誰だ!何だ!」私は叫んだ。光を闇に投げかけると、縁側の端に何かが見えた。それは一瞬だったが、確かにそこにあった。人影のようなもの。背が高く、瘦せ細った姿が、雨に濡れて立っていた。だが、次の瞬間には消えていた。光を当て直しても、そこには何もなかった。
凍りついたまま家に戻ると、家族全員が縁側に集まっていた。妹は泣き出し、母は私の腕を掴んで震えていた。父だけが冷静に、「見間違いだろ」と呟いたが、その目には恐怖が宿っていた。
それから数日間、足音は毎夜のように続いた。時には家の周りを歩き回り、時には縁側に立ち止まり、じっとしているかのように感じられた。私たちは眠れなくなり、昼間も疲れ果てていた。集落の古老に相談すると、彼は顔を曇らせ、「あれかね」とだけ言った。そして、妙な話を聞かせてくれた。
数十年前、この集落でひとりの男が死んだのだという。山で木を切っていた男が、嵐の日に倒木に潰されて死に、そのまま放置された。家族もおらず、誰にも看取られなかった男の霊が、雨の夜になると彷徨うという噂があった。古老は「気にしないのが一番だよ」と付け加えたが、その言葉に力はなかった。
私たちは藁にもすがる思いで、近くの神社に祈祷を頼んだ。神主は家に来て、長い祈りを捧げ、縁側に塩を撒いた。その夜、初めて足音は聞こえなかった。私たちは安堵し、やっと眠ることができた。だが、それで終わりではなかった。
数日後、再び雨が降った夜。私はふと目覚め、耳を澄ました。足音はしない。だが、代わりに別の音が聞こえてきた。ガリガリ、ガリガリ。まるで何かが壁を引っ掻くような音だ。私は飛び起き、音のする方へ向かった。それは縁側の障子だった。懐中電灯を手に持つ手が震えた。そっと障子に近づき、耳を当てると、確かにその向こうから音がする。
意を決して障子を開けた瞬間、風が吹き込み、光が揺れた。そこには何もなかった。だが、縁側の板には、長い爪痕のようなものが刻まれていた。私は息を呑み、後ずさった。家族を起こし、皆で確認したが、誰もその痕を説明できなかった。
それ以来、私たちは引っ越すことを決めた。あの集落を離れ、平穏な暮らしを取り戻した。だが、今でも雨の夜になると、あの足音と引っ掻く音が耳に蘇る。あの人影は一体何だったのか。なぜ我が家に現れたのか。今も答えは見つからない。ただ一つだけ確かなのは、あの恐怖が私の中に永遠に刻まれたということだ。