それは、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
福岡の郊外に住む俺は、いつものように夜遅くまで仕事を終え、バイクで家路についていた。時計はすでに午前1時を回っていて、田んぼと古い家屋が点在する寂れた道を、ヘッドライトだけを頼りに走っていた。風は生ぬるく、虫の鳴き声が耳にまとわりつく。普段なら気にもならないその道が、なぜかその夜は異様に静かで、空気が重く感じられた。
道の途中、細い橋を渡る手前で、急にエンジンが咳き込むような音を立てて止まった。バイクを降り、原因を探ろうとエンジンを覗き込むが、特別な異常は見当たらない。仕方なく、スマホのライトを頼りに周囲を見回した。橋のたもとには、古びた祠がぽつんと立っていて、その上に赤い布が風に揺れているのが目に入った。こんな時間に誰かが置いたのか、それともずっとそこにあったのか。気味が悪いと思いつつも、疲れていた俺は気にせずバイクを押して歩き始めた。
すると、背後でかすかな音がした。足音とも、風の音ともつかない、かすかに湿ったような響き。振り返ると、誰もいない。ただ、橋の向こうにぼんやりと赤い影が揺れているように見えた。目を凝らすと、それは人の形をしているようで、こちらをじっと見ている気がした。背筋に冷たいものが走り、俺は慌ててバイクに跨り、エンジンをかけようとした。何度かキックを繰り返すうちに、ようやくエンジンが唸りを上げて動き出した。その瞬間、背後で「あぁ……」という低い声が聞こえた気がして、全身が凍りついた。
家に着くまで、俺は何度もバックミラーを確認した。そこには何も映らない。ただ、首筋に感じる冷たい視線が離れることはなかった。家に着いてドアを閉めた瞬間、ようやく息がつけると感じたが、心臓はまだ激しく鼓動していた。シャワーを浴びて落ち着こうとしたが、なぜか水が妙にぬるく感じ、排水溝から赤黒い汚れが浮かんでくるような錯覚に襲われた。
翌朝、疲れ切った体を引きずって会社に向かう途中、昨夜の橋の近くを通った。昼間の光の下で見ると、ただの古びた田舎道にしか見えない。祠も赤い布もなく、昨夜の出来事が夢だったのかと思うほどだった。しかし、同僚に何気なくその話をすると、彼の顔が急に強張った。「あそこ、昔から変な噂があるよ。溺れた女が夜な夜な出てくるってさ。赤い服着てたって話もある」と。冗談っぽく笑う彼の声が、俺には遠く感じられた。
それから数日後、俺は熱を出して寝込んだ。医者には夏風邪だろうと言われたが、夜になると悪夢にうなされた。夢の中で、赤い服を着た女が橋のたもとに立ち、じっと俺を見つめている。彼女の顔は見えないが、目だけが異様に白く光っていて、口元が不自然に歪んでいる。そのたびに、耳元で「あぁ……」という声が響き、汗だくで目が覚めた。熱が下がっても、その夢は続き、だんだん現実との境目が曖昧になっていった。
ある夜、限界を感じた俺は、意を決してその橋に向かった。もう一度確かめなければ、この恐怖から逃れられないと思ったのだ。懐中電灯を手に、深夜の道を歩く。橋に近づくにつれ、空気が重くなり、虫の声すらしなくなった。祠の前に立つと、そこには確かに赤い布が置かれていた。風もないのに、布が微かに揺れている。心臓が口から飛び出しそうになるのを抑え、俺は祠に近づいた。
その時、背後で水音がした。橋の下の川から、何かが這い上がってくるような、ぬちゃぬちゃという音。振り返ると、赤い服を着た女がゆっくりと立ち上がっていた。顔は見えないが、白い目が俺を捉えている。足がすくんで動けない。彼女が一歩近づくたび、体が冷たくなり、心臓が締め付けられるようだった。「あぁ……」声が耳元で響き、意識が遠のいていく。
次に目が覚めた時、俺は病院のベッドにいた。通りがかりの人が倒れている俺を見つけて救急車を呼んだらしい。医者は過労と脱水症状だと言ったが、俺には分かっていた。あれは現実だった。看護師が「何か叫んでたよ。『赤い女が』って」と言うのを聞いて、確信に変わった。
退院後、俺はその橋には二度と近づいていない。でも、時折、夜中に目を覚ますと、遠くで「あぁ……」という声が聞こえる気がする。首筋に冷たい視線を感じるたび、あの赤い影がまだ俺を見ているんじゃないかと、眠れなくなる夜が続いている。