深い森に潜む異形の咆哮

ホラー

30年前、まだ携帯電話も普及しておらず、山間の集落では電波すら届かない時代。私は岩手県の山奥にある小さな集落で、祖母と二人で暮らしていた。集落は10軒ほどの家が点在するだけの寂れた場所で、周囲を深い森に囲まれていた。夜になると、獣の遠吠えや風に揺れる木々の音が響き、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。

その年、私は15歳だった。夏の終わり、祖母が体調を崩し、薬を求めて隣町まで出かけることになった。普段なら私も同行するのだが、その日は祖母が「留守番をしてくれ」と珍しく強く言い、私は渋々残ることにした。祖母は「夜は絶対に外に出るな」と念を押して出発した。その言葉が妙に引っかかったが、子供心に「年寄りの迷信だろう」と軽く考えていた。

夕暮れが近づくと、空は不自然に赤く染まり、森の奥から低く唸るような音が聞こえてきた。風ではない。動物の声でもない。何か得体の知れないものだ。私は不安になりながらも、家の中の戸締まりを済ませ、灯りを点けて祖母の帰りを待った。しかし、夜が更けるにつれ、その音は次第に大きくなり、家に近づいてくるようだった。

窓の外を見ると、闇の中にうっすらと蠢く影が見えた。人の形ではない。背が高く、四足で這うような異形のシルエット。恐怖で息が詰まりそうになりながらも、好奇心が勝ってしまい、隙間から目を凝らした。すると、その影がこちらを向いた瞬間、二つの赤い光が浮かび上がった。目だ。人間の目とは比べ物にならないほど大きく、爛々と輝いている。私は悲鳴を上げて後ずさり、机にぶつかって倒れた。

その瞬間、バリバリと木が裂けるような音が外から響き、家の壁を何かが引っ掻く音が聞こえてきた。爪が木材を削る、耳障りで不快な音。私は這うようにして奥の部屋に逃げ込み、布団に潜り込んで震えた。祖母の言葉が頭をよぎる。「夜は絶対に外に出るな」。あれはただの注意ではなく、警告だったのだ。

どれほど時間が経ったのかわからない。音はやがて遠ざかり、静寂が戻ってきた。私は恐る恐る布団から這い出し、窓に近づいた。外は真っ暗で何も見えないが、家の周りに残された爪痕が朝になれば見えるだろうと思った。だが、その時、遠くの森から再びあの唸り声が聞こえてきた。今度は一つではなく、複数だ。私は凍りつき、その場に立ち尽くした。

翌朝、祖母が帰ってきた。疲れ切った顔で、薬の入った袋を手に持っていた。私は昨夜の出来事を必死に話したが、祖母は黙って聞くだけで何も言わなかった。ただ、私が話し終えると、「お前が無事で良かった」とだけ呟き、深いため息をついた。その態度が逆に不気味で、私はそれ以上追及する勇気が出なかった。

それから数日後、集落の古老が家を訪ねてきた。彼は祖母と何か深刻な話をしていたが、私には聞こえないように小声で話していた。後で知ったのだが、30年前、この森の奥で猟師が消息を絶ち、その後、不気味な咆哮と共に異形の姿を見たという噂が広まったことがあったらしい。古老はその「何か」が再び現れたのではないかと疑っていた。

その夜、私は夢を見た。森の奥に立つ巨大な影。赤い目が私を見つめ、口から涎を垂らしながら近づいてくる。逃げようとするが足が動かない。影が私に覆い被さった瞬間、目が覚めた。汗だくで息を切らしながら部屋を見回すと、窓の外に赤い光が一瞬だけ見えた気がした。私は叫び声を上げ、祖母が駆けつけるまで泣き続けた。

それ以降、私は夜になると異様な気配を感じるようになった。家の周りを歩く足音、窓を叩く音、遠くから聞こえる咆哮。祖母は「気にしすぎだ」と言うが、その目には隠し切れない恐怖が宿っていた。ある日、家の裏に残された巨大な足跡を見つけた時、私は確信した。あれは夢でも幻でもない。この森には、私たちの理解を超えた何かが潜んでいる。

秋が深まる頃、集落の別の家で異変が起きた。夜中に家畜が全て消え、納屋の扉が粉々に砕かれていた。血痕はなく、ただ不気味な爪痕だけが残されていた。住民たちは不安に駆られ、古老を中心に集まって対策を話し合った。私はその場に居合わせなかったが、後で祖母から聞いた話では、「あれは昔封じたものだ」と古老が語ったらしい。封じたもの? 何を? どうやって? 祖母はそれ以上話さなかった。

冬が来る前、私たちは集落を出ることにした。祖母は「もうここにはいられない」と言い、荷物をまとめて親戚の家に身を寄せた。引っ越しの日、森の奥を振り返ると、木々の間から赤い目がこちらを見ている気がした。私は目を逸らし、二度とあの場所には戻らないと誓った。

それから月日が流れ、私は大人になった。あの時の恐怖は薄れつつあったが、ある日、偶然耳にした話で全てが蘇った。岩手県の山奥で、猟師が奇妙な遺体を発見したというのだ。人間とも獣ともつかぬ異形の骨で、近くには巨大な爪痕が残されていた。ニュースを聞きながら、私はあの赤い目を思い出した。あれはまだ生きている。森の奥で、獲物を待ち続けている。

今でも、静かな夜に目を閉じると、あの咆哮が聞こえる気がする。私を見つけたあの目が、どこかで私を追っているような感覚が消えない。あの森に近づくことはもうないが、心の奥底に潜む恐怖は、決して消えることがない。

タイトルとURLをコピーしました