闇に蠢く異形の爪痕

ホラー

それは、ある静かな秋の夜だった。

岩手県の山深い集落に住む俺は、いつものように仕事から帰り、粗末なアパートの部屋で缶ビールを手にしていた。窓の外では、風が枯れ葉を運び、時折、遠くの山から野獣の唸り声のような音が響いてくる。子供の頃から慣れ親しんだ音だ。山に囲まれたこの土地では、夜になると自然が息づき、時折不気味な気配を感じることもあった。でも、その夜は何か違った。

時計の針が11時を回った頃、玄関のドアを叩く音がした。ドンドン、と規則的で力強い音。こんな時間に訪ねてくる奴なんていない。集落の連中は皆、早寝早起きが習慣だ。少し迷ったが、ドアスコープを覗いてみた。そこには誰もいなかった。ただ、暗闇に沈む庭先の木々が風に揺れているだけだ。

「風の仕業か」と呟きながらドアを開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。そして、その瞬間、異臭が鼻をついた。腐った肉と湿った土が混ざったような、吐き気を催す臭いだ。反射的に顔を背けたが、視界の端に何か奇妙なものが映った。庭の隅、薄暗い月明かりに照らされた地面に、不自然な形の足跡が残っていた。人間のものではない。爪の跡が深く刻まれ、まるで何かが地面を抉ったかのようだった。

背筋がゾクリとした。慌ててドアを閉め、鍵をかけたが、心臓はバクバクと鳴り止まなかった。部屋の灯りを消し、カーテンの隙間から外を窺った。すると、遠くの茂みからガサガサと音が聞こえてきた。目を凝らすと、そこに何か黒い影が動いているのが見えた。人間じゃない。あれは、明らかに人間じゃない。

その影は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。四足で這うような動きだったが、時折立ち上がり、二足で歩くような仕草を見せた。月明かりに照らされたその姿は、異様に長い腕と、鋭く尖った爪を持つ怪物だった。顔はよく見えなかったが、目だけが赤く光り、俺をじっと見つめている気がした。

息を殺して動かずにいると、そいつはアパートのすぐ近くまで来た。そして、突然、けたたましい叫び声を上げた。人間の声とも獣の咆哮ともつかぬ、耳を劈くような音。俺は恐怖で体が硬直し、動けなくなった。叫び声が止むと、今度は壁を引っかく音が聞こえてきた。ガリガリ、ガリガリ、と執拗に爪を立てる音が部屋中に響き渡った。

どれくらい時間が経ったのか分からない。気がつけば、外は静まり返っていた。恐る恐る窓に近づき、カーテンを少し開けてみた。そこには何もいなかった。ただ、壁には深く抉られた爪痕が無数に残されていた。現実感がなく、夢でも見ているのかと思ったが、鼻に残る異臭と目の前の傷跡が、俺に現実を突きつけた。

翌朝、近所のおじいさんにその話をした。すると、彼は顔を曇らせ、こう言った。「お前、あれに会ったのかもな。この辺じゃ昔から噂されてるんだよ。山の奥に住む化け物が、時々里に下りてくるってな。昔、猟師がそいつに襲われて、片腕を食いちぎられたって話もある。気をつけな。あいつは一度目をつけた獲物は絶対に逃がさない」

その言葉を聞いてから、俺の生活は一変した。夜になると、あの足跡や爪痕が頭から離れず、些細な物音にも怯えるようになった。ある晩、仕事から帰ると、アパートのドアが少し開いていた。鍵はちゃんとかけたはずなのに。部屋に入ると、またあの異臭が漂っていた。そして、床には新しい足跡が残されていた。今度は室内にだ。

それからというもの、毎夜のように怪物の気配を感じるようになった。窓の外に赤い目が光り、壁を引っかく音が響く。眠れない夜が続き、俺の精神は限界に近づいていた。ある日、とうとう我慢できなくなり、集落を出る決意をした。荷物をまとめ、車に飛び乗ると、一目散に山を下った。

新しい町で暮らし始めた俺だったが、心の底に残る恐怖は消えなかった。そして、数ヶ月後、恐ろしい知らせが届いた。俺が住んでいたアパートが全焼したというのだ。原因は不明。ただ、焼け跡には不思議な足跡と爪痕が残されていたらしい。近所の住人たちは「あの化け物が怒ったんだ」と囁き合っていたという。

今でも、静かな夜になると、あの赤い目と爪痕が脳裏に浮かぶ。あいつはまだ俺を追っているのかもしれない。山を下りたくらいで逃げ切れる相手じゃない。そう思うと、背後から聞こえる風の音すら、俺にはあの怪物の足音に聞こえて仕方がない。

闇の中、何かが蠢いている。俺はもう、二度とあの山には近づかないと誓った。だが、心のどこかで分かっている。あの怪物は、俺を見逃すつもりはないのだ。

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