異界の駅に響く足音

ホラー

数年前の夏、大阪府の郊外にある小さな駅での出来事だ。

その日は夕暮れ時で、空は茜色に染まり、どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。私は残業を終え、終電間際の電車に乗るため、普段あまり使わないローカル線の駅へと急いでいた。駅に着いた時、ホームには誰もおらず、ただ風が古びた看板を揺らす音だけが響いていた。

電車を待つ間、何気なくホームの端に目をやると、そこに奇妙なものが見えた。薄暗い照明の下、古い木製のベンチに、ぼんやりと白い人影が座っているように見えたのだ。一瞬、目を疑ったが、確かにそこには何かがあった。年老いた老婆のような姿で、顔は見えず、ただじっとこちらを向いているように感じた。私は気味が悪くなり、目を逸らして電車の到着を待った。

やがて遠くから電車の音が聞こえてきた。ホッとした瞬間、背後でカツン、カツンという硬い足音が響いた。振り返ると、さっきまでベンチにいたはずの人影が、いつの間にか私のすぐ後ろに立っていた。距離にしてほんの数メートル。老婆らしきその姿は、白い着物をまとい、髪は乱れ、顔は影に隠れて見えない。だが、その目だけが異様に光っているように感じた。

心臓が跳ね上がり、思わずホームの反対側へ逃げようとしたが、足がすくんで動けない。足音が近づくたび、空気が重くなり、耳鳴りが止まらなかった。そして、電車がホームに滑り込む直前、老婆の口元が僅かに動いた気がした。「おいで…」と囁くような声が、風に混じって聞こえた瞬間、全身が凍りついた。

電車が到着し、ドアが開くと同時に私は飛び込むように乗り込んだ。車内には数人の乗客がいたが、誰も私の異変には気づかない様子だった。窓の外を見ると、老婆はホームに立ったまま、じっとこちらを見つめていた。電車が動き出すと、その姿はゆっくりと闇に溶けるように消えた。

それで終わりかと思ったが、違った。次の日、私は妙な夢を見た。薄暗い駅のホームに立ち、遠くから近づいてくる足音を聞いている夢だ。カツン、カツンという音が近づくたび、胸が締め付けられる。そして目が覚めると、枕元に小さな泥の跡が残っていた。靴底の形をした、湿った跡だ。

最初は偶然だと思った。だが、その日から毎晩、同じ夢を見た。夢の中で足音は少しずつ近づき、時には私の耳元で「おいで…」と囁く声が聞こえるようになった。泥の跡も増えていき、ある朝にはベッドの足元にまで及んでいた。私は恐怖で眠れなくなり、友人に相談した。彼は半信半疑ながらも、「何かおかしな場所に行ったんじゃないか?」と聞いてきた。そこで初めて、あの駅での出来事を思い出したのだ。

友人の勧めで、私はその駅を再び訪れることにした。昼間に見る駅は平凡で、ただの田舎の無人駅にしか見えなかった。だが、ホームの端にあるあのベンチに近づいた時、背筋が凍った。ベンチの木目に、うっすらと黒い手形のような跡が残っていたのだ。誰かが長い間そこに手を置いていたかのように、くっきりと。

その夜、夢はさらに鮮明になった。駅のホームに立ち、足音がすぐ背後まで迫ってくる。振り返ると、老婆が目の前に立っていて、初めてその顔を見た。目は落ちくぼみ、口は裂けたように大きく、歯が異様に尖っている。彼女はニヤリと笑い、「おいで、一緒に行こう」と手を伸ばしてきた。私は叫び声を上げて目を覚ましたが、部屋の中にはあの足音がまだ響いている気がした。

翌朝、ベッドの周りは泥だらけだった。足跡は私の枕のすぐ横まで続いており、シーツには小さな手形が残っていた。私はもう限界だった。引っ越しを決め、駅から遠く離れた場所に移った。それでも、時折、風のない夜にカツン、カツンという音が遠くから聞こえてくることがある。まるで何かが見つけに来ているかのように。

今でも思う。あの駅には、何か異界と繋がるものがあったのではないか。あの老婆は、私をどこかへ連れ去ろうとしていたのではないか。そして、もし私があの時、彼女の手を取っていたら、どうなっていたのだろう。考えるだけで、背筋が冷たくなる。

大阪府のどこかに、そんな駅が今もひっそりと存在しているかもしれない。もし、あなたが田舎の無人駅で、白い人影を見かけたら、決して近づかないでほしい。そして、足音が聞こえたら、振り返らずに逃げてほしい。私のように、泥の跡に追われることのないように。

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