雨が降りしきる夜だった。
兵庫県の山奥にひっそりと佇む小さな村。そこに住む者たちは、雨の日には決して外に出ないという奇妙な慣習を持っていた。人家はわずか十数軒、細い山道を抜けた先に広がる盆地に点在している。村の周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、昼間でも薄暗い雰囲気が漂う場所だ。雨が降ると、その森から聞こえてくる音が、ただの雨音ではないと囁かれていた。
その日、私は友人の頼みでこの村を訪れていた。友人は民俗学を研究する学生で、村に伝わる古い言い伝えを調べたいのだという。私は単なる付き添いだったが、雨の予報が出ているにもかかわらず、友人は「どうしても今日でなければならない」と頑なだった。村に着いたのは夕暮れ時。空はすでに厚い雲に覆われ、遠くで雷鳴が響き始めていた。
村人たちは我々を冷ややかな目で見つめていた。よそ者を歓迎しない雰囲気は明らかだったが、友人は意に介さず、宿となる古い民家へと向かった。そこに住む老婆は、皺だらけの手で我々に茶を差し出しながら、「雨が降る前に帰りな」と一言だけ告げた。その声は枯れていて、どこか不気味な響きを帯びていた。
夜が更けるにつれ、雨は本降りとなった。屋根を叩く雨音が次第に大きくなり、風が窓の隙間から唸りを上げる。私は友人に「そろそろ帰ろう」と提案したが、彼はノートに何かを書き込むのに夢中で、私の言葉を聞き流した。その時だった。雨音に混じって、奇妙な音が聞こえてきたのだ。
最初は遠くで鳴る鐘の音のようだった。しかし、よく耳を澄ますと、それは人の声にも似ていた。低く、呻くような声が、雨音に合わせて強弱をつけながら近づいてくる。私は背筋が冷たくなり、友人にその音を聞かせようとしたが、彼は「雨の音だろう」と一蹴した。だが、私には分かっていた。あれはただの自然の音ではない。
窓の外を見ると、闇の中にぼんやりとした影が揺れているように見えた。雨で滲んだ視界の中、人影とも獣ともつかないものが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。私は恐怖で声も出せず、ただその動きを見つめていた。友人はようやく顔を上げ、「何だ?」と呟いたが、その瞬間、部屋の灯りが一瞬にして消えた。
暗闇の中で、雨音が一層激しくなった。いや、それだけではない。壁の向こうから、誰かが這うような音が聞こえてきた。ザリザリと何かが擦れる音、時折混じる低い呻き声。私は膝を抱えて震え、友人に助けを求めようとしたが、彼の姿は暗闇に溶け込んで見えなかった。「おい、どこだよ!」と叫んだ私の声は、雨音にかき消された。
その時、突然、窓が叩かれた。バンッ、バンッと、力強い音が連続して響く。私は反射的に立ち上がり、窓から離れようとしたが、足がすくんで動けない。叩く音が止んだ瞬間、外から声が聞こえてきた。「こっちへおいで……」それは老婆のような、掠れた声だった。私は全身が凍りつき、息さえ満足にできなかった。
友人がどこかで叫んだ。「何だこれ!?」彼の声は慌てふためいていて、何かに驚いているようだった。私は暗闇の中を手探りで彼を探したが、その時、背後で床が軋む音がした。振り返る勇気はなかった。だが、首筋に冷たい息が当たるのを感じた瞬間、私は気を失った。
目が覚めた時、私は森の中にいた。雨は止んでいたが、全身が濡れそぼち、泥にまみれていた。辺りを見回しても友人の姿はなく、ただ静寂が広がるばかりだった。遠くに村の灯りが見えたが、そこへ戻る気には到底なれなかった。私は這うようにして山道を下り、どうにか麓の町までたどり着いた。
後日、友人の行方を捜すため村に戻ったが、そこには誰もいなかった。家々は朽ち果て、まるで何十年も人が住んでいないかのようだった。村人たちの姿も、宿の老婆の姿も、どこにもなかった。私はあの夜の出来事を警察に話したが、信じてもらえなかった。ただ一人、古老の警官が私の話を聞いてこう呟いた。「あそこは雨が降ると消える村だよ。昔からそうさ」
それ以来、私は雨の降る夜が怖くて仕方ない。雨音が聞こえるたび、あの呻き声や這う音が脳裏に蘇る。あの村で何が起こったのか、友人はどこへ消えたのか、今も分からない。ただ一つ確かなのは、あの雨音が私を永遠に追いかけてくるような感覚だ。夜、窓の外で雨が降り始めると、私は耳を塞ぎ、目を閉じるしかない。そして祈るのだ。もう二度と、あの声が聞こえませんようにと。