北海道の奥深く、人里離れた山間部にその村はあった。鬱蒼と茂る針葉樹林に囲まれ、冬ともなれば深い雪に閉ざされる場所だ。村人たちは代々、森の恵みに頼りながら慎ましく暮らしてきた。しかし、その森の奥には決して近づいてはならない場所があると、古くから言い伝えられてきた。『呪いの沼』と呼ばれるその場所は、黒々とした水面が不気味に静まり返り、周囲の木々さえも枯れ果てたように歪んでいた。
ある冬の夜、村に住む若い猟師が森へ出かけたまま戻らなかった。彼は腕が良く、どんな猛吹雪でも獲物を仕留めて帰ってくる男だった。村人たちは心配しながらも、吹雪が収まるのを待つしかなかった。数日後、雪が止んだ朝、彼の足跡を頼りに捜索に出た仲間たちが森の奥で見たものは、凍りついた表情で立ち尽くす猟師の姿だった。彼の目は大きく見開かれ、手には猟銃が握られたままだったが、引き金は引かれていなかった。まるで何かに怯え、動くことすら忘れたかのように。
仲間たちは急いで彼を村に連れ戻したが、その日から猟師の様子がおかしくなった。夜になると突然起き上がり、虚空を見つめて震え出すのだ。口からは途切れ途切れに「沼が…呼んでる…」という言葉が漏れ、家族は恐怖に震えた。村の古老たちは、これは『呪いの沼』の仕業だと囁き合った。沼の近くに生える一本の古木には、かつて異邦人が村に持ち込んだ呪いが宿っているという伝説があった。その呪いは、近づく者の心を蝕み、沼の底へと引きずり込むのだと。
猟師の異変はそれだけでは終わらなかった。ある夜、彼は家族が寝静まった隙に家を抜け出し、再び森へと消えた。翌朝、村人たちが森を捜索すると、そこには猟師の足跡だけが残されていた。足跡は一直線に沼へと向かい、そして水面の端でぴたりと途切れていた。凍てついた沼の表面には、彼の姿も影も映っていなかった。村人たちは恐れおののき、沼に近づくことを禁じたが、不思議なことにその日から夜になると、どこからともなく低く唸るような声が村に響き渡るようになった。
それから数年が経ち、村では奇妙な出来事が続いた。子供たちが森の奥から聞こえる声に誘われるように家を飛び出し、戻ってこなくなる事件が相次いだ。戻ってきた僅かな子たちは、みな一様に目が虚ろで、口から「沼が…私を…」と呟くばかりだった。村人たちは恐怖に耐えかね、ついに村を捨てて下山することを決めた。しかし、最後の夜、村に残った数人の若者が異様な光景を目撃した。沼の方角から這うように近づいてくる影があった。黒い霧のようなその影は、人の形をしていたが、手足が異様に長く、顔には目も鼻もなかった。影は村に近づくにつれ、低い唸り声を上げ、まるで何かを探しているかのように這い回った。
翌朝、村を出ようとした者たちは全員が凍りついたように立ち尽くしていた。彼らの目は猟師と同じく見開かれ、手には荷物が握られたままだった。村は静寂に包まれ、ただ森の奥から微かに聞こえる囁きだけが残響していた。その囁きは、まるで「逃げられない」と告げているかのようだった。やがて村は完全に無人となり、雪に埋もれて歴史から消えた。しかし、森を訪れる旅人たちは今でも、吹雪の中で聞こえる不気味な声や、木々の間を漂う黒い影を見たという話を語り継いでいる。
時が流れ、ある冬の日、私の友人がその森の近くでキャンプをしていた時のことだ。彼は夜中にテントの外で何かが動く気配を感じ、目を覚ました。外は猛吹雪で視界はほとんど利かなかったが、風の音に混じって低い唸り声が聞こえてきたという。恐る恐るテントの入り口を開けると、そこには雪に埋もれた足跡が一本の線を描いて続いていた。その足跡は彼のテントをぐるりと囲み、やがて森の奥へと消えていた。彼は恐怖に震えながら朝を待ち、夜が明けると同時にその場を立ち去った。それ以来、彼はあの森には二度と近づかないと誓った。
この話を聞いて、私はあの村と沼の伝説を思い出した。あの森の奥に潜む呪いは、今なお生き続けているのかもしれない。もし、あなたが冬の北海道で森の近くを通ることがあれば、耳を澄ませてみてほしい。風の音に混じって聞こえてくるかもしれない、沼の底から響くような不気味な囁きに。あなたがその声に呼ばれた時、果たして逃げ切ることができるだろうか。