広島県の山間部に、古い民家が一軒、ひっそりと建っていた。ここには、若い夫婦が新婚生活を始めるために引っ越してきたのだが、二人はその土地に秘められた闇を知る由もなかった。
ある晩、深夜の静けさを破るような不思議な音が響いた。夫は最初、それがただの風の音かと思ったが、夜が更けるにつれてその音は明らかに異常なものに変わっていった。まるで何かが、家の周りを歩き回るような、しかし、足音とは違う、滑るような感覚の音だった。
妻はその音に気づき、夫に尋ねたが、夫は「多分、野生動物が出歩いているだけだろう」と答えた。しかし、二人とも、その音が何か不吉なものを運んでいるような予感に耐えられず、窓から外を見た。外は月明かりで照らされていたが、何も見えない。
その夜、二人は一睡もできず、朝を迎えた。日中は何事もなく過ぎたが、次の夜もまた、その音が戻ってきた。今度はさらに近くに感じられ、二人は恐怖のあまり震え始めた。
数日後、夫は村の古老にそのことを相談した。古老は、その音が「滑る音」であるならば、地元で恐れられている妖怪「滑り鬼」の仕業かもしれないと教えた。滑り鬼は、人間の生活の邪魔をし、特に夜に人を惑わすとされている。
その夜、二人は防衛策を考えた。部屋の窓を閉め、灯りを消して見えないふりをしようとした。しかし、その策は通じなかった。夜半過ぎ、再びその滑るような音が聞こえ、今度は家の内部から聞こえるようになった。
恐怖に耐えかねた妻は、声をあげて泣き始めた。その時、部屋の隅から何かが動く気配を感じた。そこには、何もないはずの場所に、黒い影のようなものが浮かんでいた。それは、滑るような動きで近づいてきて、夫婦の視界を遮るように大きくなった。
夫は勇気を振り絞り、その影に向かって何かを投げつけたが、影は消えず、代わりに部屋中を滑り回り始めた。最後に影は、妻のそばに止まり、彼女の髪を撫でるかのように触れた瞬間、夫は気を失った。
翌朝、夫が目を覚ますと、妻は消えていた。家の中には、彼女の存在を示すものが何一つ残っていなかった。村人たちは、彼女が滑り鬼に連れ去られたと噂し始めた。
その後、夫は一人でその家に住み続けたが、夜になると必ずその音が聞こえ、家の中を滑る気配を感じるようになった。そして、数ヶ月後、彼は突然姿を消した。家はそのまま放置され、現在もその地域では「滑り鬼の家」と恐れられている。