夜の山寺で聞こえた声

実話

数年前の秋のある夜のことだった。紅葉の見頃を迎えた奈良県の山寺に、私は友人と一緒に訪れていた。

日が沈むと、辺りは一変して静寂に包まれる。私たちは、寺の本堂で座禅をすることにした。本堂の中は、薄暗く、蝋燭の灯りだけが揺らめいている。風の音と、時折聞こえる虫の声が、まるでこの世ならざる世界に誘うかのようだった。

座禅を始めてしばらくすると、周囲の音が次第に遠のき、自分の呼吸だけが意識の中心に来る。だが、そんな静けさの中で、ふと聞こえた声に私は違和感を覚えた。

「助けて…」

それは、微かに、しかし確かに聞こえた女性の声だった。私は目を開き、辺りを見回すが、そこにいるのは友人と私だけ。友人もその声に気づいたようで、顔を引きつらせていた。

「何かの…幻聴?」

友人が囁くように言ったが、私はその声の方向に目を凝らした。声は本堂の奥、暗闇に溶け込むような場所から聞こえていた。恐る恐るその方向に進むと、小さな部屋の扉が見えた。

扉を開けると、そこは小さな納骨堂だった。無数の位牌が並び、薄暗い中で怪しく光る。私が一歩踏み入れると、またもや声が聞こえた。

「助けて…」

今度ははっきりと、目の前で聞こえた。心臓が喉まで上がるような恐怖に包まれながら、私は思わず叫んだ。

「誰か、そこにいるんですか?」

しかし、返事はない。ただ、冷たい風が吹き抜ける音だけが響いた。その時、友人が私の腕を強く引っ張り、納骨堂から出るよう促した。

「ここから出よう。早く!」

私たちは慌てて本堂に戻り、外へ飛び出した。夜空には月が出ており、寺の敷地はその光でほのかに照らされていたが、どこか異様な雰囲気が漂っていた。

その後、地元の人にその話をすると、彼は青ざめた顔で話してくれた。

「ああ、その声か…。昔、ここで若い尼僧が失踪したことがあるんだ。彼女は毎晩、座禅をしていたけど、ある夜から姿を消した。そして、その日から時折、彼女の声が聞こえるようになったって言われてるんだよ。」

その話を聞いて、私たちは恐ろしさで身震いした。あの声は、本当に助けを求めるものだったのか。それとも、私たちをこの世の苦しみから解放するための警告だったのか。

その夜の体験は、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。奈良の山寺の美しさと静けさは、未だに私を惹きつけるが、夜の本堂で聞こえたあの声は、決して忘れることができない。

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