山奥の古い旅館

実話

金沢から車で一時間ほど山奥に入った場所に、古びた旅館があった。外観は昭和の面影を色濃く残し、木造の建物は夜になると月明かりに照らされて不気味な影を落としていた。今から20年前、私はその旅館に宿泊したことがある。

宿泊した夜は秋の終わり、紅葉が美しい時期だったが、空には厚い雲が広がり、夜の訪れとともに辺りは真っ暗になった。旅館の主は一見穏やかな老人で、私を笑顔で迎え入れたが、目にはどこか冷たい光が宿っていた。

部屋に通されると、そこは和風の落ち着いた空間だったが、古さが漂う。畳は擦り切れ、障子には所々に穴が開いていた。夜が更けるにつれて、周囲の静けさが耳に痛いほどに響く。私は布団に横たわり、読書を始めたが、ページをめくる音さえも大きく聞こえた。

深夜、ふと目を覚ますと、部屋の外からかすかな足音が聞こえた。ゆっくりとした、しかし確かな歩み。私は心臓が早鐘を打つ感覚を覚えながら、恐る恐る障子を開けた。廊下は真っ暗で、人の気配は感じられなかったが、その足音は消えず、ひたすらに続いていた。

翌朝、旅館の主にそのことを尋ねると、彼は不思議そうな顔をして「この旅館には、私と妻しか住んでいません。夜中にそんな音がするはずがありませんね」と答えた。しかし、彼の表情には一瞬、不安の色が過ぎったように見えた。

その日、宿泊客は私一人だった。昼間は静寂の中で、庭の枯れ木や苔むした石灯籠を見て過ごしたが、夕方になると再び不安が胸を締め付けた。

二晩目もまた、夜中になると足音が聞こえた。だが、今度は部屋の外ではなく、部屋の中で聞こえたのだ。布団から起き出し、部屋の隅々を調べたが、何も見つからなかった。恐ろしさに耐えかねて、私は旅館から逃げるように出て行った。

後日、知り合いからその旅館の噂を聞いた。かつてその旅館は、戦時中に兵士を宿泊させるための場所だったという。終戦後、多くの兵士が帰らぬ人となったが、ある兵士が最期を迎えた部屋こそ、私が泊まった部屋だったらしい。彼は戦友の名前を呼ぶ声を聞きながら、死んでいったという。これが、私が体験した恐怖の始まりだった。

今でも時折、あの足音を思い出し、背筋が凍ることがある。あの旅館は今も存在するのか、それとも時と共に消えてしまったのか、私には分からない。ただ、その恐怖の記憶だけが、私の心の奥底にしっかりと刻まれている。

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