山奥の古い宿

実話

今から10年前、私は長野県の山奥にある小さな温泉宿に泊まることになった。都会の喧騒を離れ、自然の中で心身ともにリラックスするというのが目的だったが、そこで経験したことは今も忘れられない。

宿に着いたのは夕暮れ時だった。周囲は静かで、木々のざわめきだけが聞こえる。宿の主人は年老いた男性で、温かく迎え入れてくれたが、その目には何か言い知れぬ暗さがあった。

部屋に案内されると、古びた畳の匂いが鼻をついた。窓から見えるのは深い森ばかりで、まるで外界と隔絶されているかのようだった。夕食の時間まで時間があったので、少し散歩しようと思った。しかし、宿の周りは急な斜面と密生した木々で、歩きやすい場所はほとんどなかった。

夕食の席では、主人が昔話を始めた。その話は、宿が建つ場所にかつて村があったというものだった。戦争の混乱で村は消え、残されたのはこの宿だけだという。それだけならまだしも、主人の話は暗転した。

「夜中に足音が聞こえることがあるんだ。でも、誰もいない。昔の村人たちの足音だと言う者もいる」と彼は言った。私はその話を冗談だと思い、笑って流そうとしたが、彼の表情は真剣そのものだった。

夜、布団に入ってもその話が頭から離れなかった。静けさの中、風の音だけが聞こえる。だが、しばらくすると本当に何かが歩く音が聞こえ始めた。最初は遠く、次第に近づいてくる。私は布団から出て、音の出所を探そうとしたが、何も見つからなかった。

その夜はほとんど眠れず、翌朝、主人にそのことを話した。彼はただ「そうか」と小さく答えるだけだった。チェックアウトの時間、宿を出る時も、何かが私を見送っているような感覚があった。

その後、何年も経った今でも、あの足音は私の夢に出てくることがある。あの宿に何が潜んでいたのか、今でも分からない。だが、あの山奥の古い宿で過ごした一夜は、私の中に深い恐怖を植え付けたのだ。

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