古い旅館の怪

怪談

大正時代のある秋の夜、私は仕事で大分県を訪れていた。泊まる宿は、古びた旅館だった。山あいの静かな場所で、周りには人気もまばら。旅館の主人は、年老いた男性で、目元に深い皺を刻んでいた。彼は私を二階の部屋に案内し、古めかしい布団を敷いた。

部屋は木造で、床板は年月と共に鳴る音が心地よく、壁には古い絵画が飾られていた。窓から見えるのは、月明かりに照らされた竹林。だが、その風情に反して、夜が更けるにつれ、不気味な気配が漂い始めた。

深夜、私は何かの音で目を覚ました。窓の外から聞こえるのは、誰かの足音。だが、見てみると何もいない。ただ竹が風に揺れるだけだ。それからしばらくして、また聞こえた。カタカタと、まるで誰かが階段を上がってくるような音。

勇気を振り絞って部屋を出て、階段を見ると、そこには何もいなかった。しかし、次の瞬間、旅館の奥から聞こえる女の笑い声。あの老人の妻は既に亡くなっていると聞いていたのに、どうして?

その夜はほとんど眠れなかった。翌朝、主人に昨夜の出来事を尋ねると、笑いながら「この旅館は大正時代からずっと、奇妙なことが起こるんですよ」と言う。その言葉に、私は身震いした。

後に調べると、この旅館では大正時代に一人の女が悲劇的な死を遂げていた。その女は、若くして結婚したが、夫の暴力に耐えかねて自殺したという。その霊が、今もこの旅館をさまよっているらしい。

旅館に滞在した三日間、毎晩、同じような現象が繰り返された。最後の夜、私はその霊と向き合う決意をした。深夜、再び足音が聞こえてきたとき、私は声をかけた。「どうしてここにいるの?」

すると、静寂を破るように、かすれた声で答えた。「私は、出られないの。私の悲しみを忘れてほしいの。」その声は哀しみに満ちていた。

翌朝、私は旅館を去る前に、主人の前に立ち、「どうかこの旅館の歴史を大切に。ここにはまだ、慰めを必要としている魂がいる」と伝えた。主人は深く頷き、私を見送った。

その後、私は何度か大分を訪れたが、あの旅館には二度と泊まることはなかった。ただ、その夜の出来事は、私の中で鮮明に残り続けている。

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