廃墟の囁きが呼ぶ夜

実話風

静岡の市街地、かつて賑わっていた商店街の一角に、ひっそりと佇む古いビルがあった。地元では『幽霊ビル』と呼ばれ、誰も近づかない場所だった。今から30年ほど前、1990年代半ばの話だ。バブルが弾け、街の活気が少しずつ失われていく中で、そのビルは取り壊されることもなく、ただ朽ちていくように放置されていた。

私、仮にタケシと呼んでほしい、は当時高校生だった。友人のユウジとマサトと一緒に、夜な夜な街を徘徊するのが日課だった。夏休みのある蒸し暑い夜、いつものようにコンビニで時間を潰した後、ユウジが急に提案してきた。

「なあ、あの幽霊ビル、行ってみねえ?肝試しってやつだよ。」

ユウジはいつもこんな無茶なことを言い出す奴だった。マサトは気弱で、すぐに「やめとこうよ、なんかヤバいって噂あるじゃん」と渋ったが、私も少し好奇心が疼いた。地元で育った人間なら誰でも知ってるあのビルの話。20年前に火事で何人か死に、その後、誰も入居しないまま放置されているという。夜中に窓から白い影が見えたとか、叫び声が聞こえたとか、気味の悪い噂が絶えなかった。

結局、ユウジの勢いに押され、3人でそのビルに向かった。夜の11時過ぎ、商店街は静まり返り、遠くで車のエンジン音が時折響くだけ。ビルの外観は、コンクリートがひび割れ、窓ガラスは埃と蜘蛛の巣で曇っていた。入り口の鉄扉は錆びつき、半開きのまま動かない。懐中電灯を手に、ユウジが先に進んだ。「ほら、怖くねえよ!」と強がる声が、妙に空々しく響いた。

ビルの中は、湿ったカビの臭いが充満していた。1階はかつての店舗の残骸で、壊れたカウンターや散乱した紙類が床を覆っていた。階段を上るたびに、足元の木板がギシギシと不気味な音を立てた。2階に着くと、廊下の奥にいくつかの部屋が並んでいた。ドアはどれも半壊で、暗闇の中にぽっかりと口を開けているようだった。

「なんか、寒くね?」マサトが震える声で言った。確かに、夏の夜なのに、ビルの中は妙に冷え込んでいた。ユウジは平気なふりをして「ビビんなよ」と笑ったが、懐中電灯を持つ手が少し震えているのが分かった。私も心臓が早鐘のように鳴っていたが、怖がってると思われたくなくて黙っていた。

3階に上がると、雰囲気が一変した。空気が重く、息苦しい。廊下の突き当たりに、唯一閉まったままのドアがあった。木製のドアには、赤いペンキで殴り書きされたような文字が書かれていた。『入るな』。その文字を見た瞬間、背筋が凍った。ユウジでさえ一瞬足を止め、「…なんだこれ」と呟いた。

「やめよう、戻ろう」マサトが懇願したが、ユウジは「ここまで来て引き返すなんてダサいだろ」と強がってドアに近づいた。すると、突然、ドアの向こうから小さな音が聞こえた。カタ…カタ…。何か硬いものが床を叩くような音。3人とも固まった。ユウジが「誰かいるのか?」と叫んだが、返事はない。代わりに、音が少しずつ大きくなった。カタカタ…カタカタ…。

「もうやめよう!」マサトが泣きそうな声で叫び、階段の方へ走り出した。私も逃げたかったが、ユウジがドアノブに手をかけた瞬間、ドアが勝手にゆっくり開き始めた。懐中電灯の光が中を照らすと、そこには誰もいない。ただ、部屋の中央に古い木製の椅子がポツンと置かれていた。その椅子が、まるで誰かが座っているかのように、ギシ…ギシ…と揺れている。

「何!?何!?」ユウジが叫び、懐中電灯を落とした。光が床を転がり、部屋の奥を照らした瞬間、壁に映った影が動いた。人の形をした影。だが、部屋には誰もいない。私たちは一斉に叫び声を上げ、階段を駆け下りた。足音がビル全体に響き、まるで何かに追いかけられているような錯覚に陥った。

1階に辿り着き、鉄扉をくぐって外に出た時、初めて息ができた。振り返ると、ビルの窓の一つに、白い人影が立っているように見えた。だが、すぐに消えた。私たちは二度とそのビルに近づかなかった。

それから数日後、ユウジが妙なことを言い出した。「あの夜、夢で女の声が聞こえた。『なぜ来たの?』って、耳元で囁かれたんだ。」マサトも同じ夢を見たと震えながら話した。私も、実は毎夜、誰かが私の部屋のドアを叩く音で目が覚めていた。カタ…カタ…。あのビルの音と同じだった。

あのビルは数年後に取り壊されたが、解体作業中に作業員が奇妙な体験をしたという噂が広まった。壁の中から、誰かの日記が見つかり、そこには「このビルには出る。夜中に囁く声が止まない」と書かれていたらしい。私たちは今でも、あの夜のことを話すと鳥肌が立つ。あのビルで見たものは、一体何だったのか。答えを知るのが怖くて、誰もその真相を追おうとはしなかった。

今でも、静岡のあの商店街を通ると、背後に誰かの視線を感じることがある。カタ…カタ…と、遠くで聞こえる音に、思わず振り返ってしまうのだ。

タイトルとURLをコピーしました