数年前、俺は大学の夏休みを利用して、高知の山奥にある小さな集落にフィールドワークに出かけた。テーマは「過疎地域の民俗文化」。地元の古老たちから昔話を聞き、消えゆく風習を記録するのが目的だった。集落は、舗装もろくにされていない細い山道の先にあり、携帯の電波は途中で途切れ、まるで外界から隔絶された場所だった。
集落に着いた初日、俺は地元の公民館で70歳くらいの老人に話を聞いた。彼は穏やかな笑顔で、昔の祭りや農作業のことを語ってくれた。だが、話の途中でふと声を潜め、「あの廃墟には近づかない方がいい」と言い出した。廃墟? そんな話は事前調査で出てこなかった。興味をそそられた俺が詳しく尋ねると、彼は目を逸らし、「昔、研究所があった場所だ。誰も行かない」とだけ言って、それ以上は口を閉ざした。
その夜、俺は集落の外れにある古い民宿に泊まった。木造の建物はギシギシと音を立て、風が吹くたびに窓枠が震えた。寝付けないまま布団の中でスマホをいじっていると、なぜかあの老人の言葉が頭から離れなかった。「研究所」とは何だ? なぜ誰も近づかない? 好奇心がむくむくと膨らみ、いてもたってもいられなくなった。結局、懐中電灯とカメラだけ持って、夜中の2時頃に民宿を抜け出した。
集落の裏手には、鬱蒼とした森が広がっていた。月明かりだけが頼りで、懐中電灯の光は木々の間に吸い込まれるようだった。老人に聞いた廃墟の場所は、集落から1キロほど山を登ったところにあるらしい。獣道のような細い道を進むと、突然、森が開けた。そこにそびえていたのは、コンクリートがひび割れ、蔦に覆われた巨大な建物だった。窓ガラスは全て割れ、黒い穴がぽっかりと口を開けている。確かに、研究所というよりは廃墟そのものだった。
近づくにつれ、空気が重くなった気がした。いや、実際に何か変わった。音が、消えたのだ。虫の鳴き声も、木々のざわめきも、俺の足音すらも聞こえない。まるで世界が真空になったような感覚だった。背筋に冷たいものが走ったが、好奇心が恐怖を上回っていた。俺は意を決して、建物の入り口らしき場所に足を踏み入れた。
中は予想以上に荒廃していた。床にはガラス片や錆びた金属が散乱し、壁には意味不明な落書きがびっしりと描かれていた。懐中電灯で照らすと、落書きはただの殴り書きではなく、何か規則性のある模様のようにも見えた。文字なのか、記号なのか、解読はできなかったが、不気味なほど整然としていた。奥に進むと、長い廊下が現れ、両側にいくつもの部屋が並んでいた。どの部屋もドアが壊れ、暗闇が広がっている。
最初の部屋に入ってみると、床に古い書類が散らばっていた。拾い上げてみると、紙は黄ばみ、インクは滲んでいたが、科学的な数式や図表が書かれていた。専門外の俺には理解できなかったが、「波動制御」や「次元干渉」といった言葉が目に入った。研究所という老人の言葉が本当だったのだ。だが、こんな山奥で何を研究していた? 不安が胸に広がったが、好奇心がまだ俺を突き動かしていた。
廊下の奥に、大きな鉄扉があった。他の部屋とは違い、錆びてはいるものの、頑丈そうだった。ドアの表面には、奇妙な円形の模様が刻まれていた。まるで、落書きと同じような規則性を持ったデザインだ。取っ手を握ると、異様に冷たく、手が凍りつくかと思った。力を込めて押すと、軋む音とともにドアがゆっくり開いた。
その瞬間、頭の中で何かが「鳴った」。音ではない。脳に直接響くような、形容しがたい感覚だった。同時に、目の前が一瞬真っ白になり、平衡感覚が狂った。よろめきながら中に入ると、そこは広い円形の部屋だった。中央には、巨大な機械のようなものが鎮座していた。無数のケーブルが床を這い、天井には割れたモニターがぶら下がっている。機械の表面には、あの円形の模様が無数に刻まれていた。
そして、気づいた。部屋の隅に、誰かがいる。懐中電灯を向けると、ぼろぼろの白衣を着た男が、壁に凭れるようにして座っていた。いや、座っているというより、壁に「貼り付いている」ように見えた。彼の目は虚ろで、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。俺は叫びそうになったが、声が出なかった。無音の世界で、俺の心臓の鼓動だけが響いていた。
男が、ゆっくりと口を開いた。声は聞こえない。なのに、頭の中に直接、言葉が流れ込んできた。「見つけた。君も、向こう側を見たいだろう?」 何? 向こう側? 意味が分からない。だが、次の瞬間、男の体が溶けるように崩れ始めた。いや、崩れるというより、空間に吸い込まれるように消えていった。同時に、機械が低く唸り始めた。部屋全体が振動し、円形の模様が淡く光り出す。
逃げなきゃ。頭ではそう思ったが、体が動かない。視界が歪み、まるで世界が裏返るような感覚に襲われた。目の前に、黒い「何か」が現れた。穴だ。空間にぽっかりと開いた、底の見えない穴。そこから、冷たい風が吹き出し、俺の体を引き寄せる。必死に抵抗したが、足が滑り、穴に吸い込まれる寸前だった。
その時、誰かに肩を強く掴まれた。振り返ると、朝まで話を聞いたあの老人が立っていた。彼の目は怒りに満ち、口が何か叫んでいるように動いていた。聞こえない。だが、力ずくで俺は部屋から引きずり出された。鉄扉が閉まる音が、ようやく耳に届いた。同時に、音が戻ってきた。虫の声、風の音、俺の荒い息遣い。
老人は俺を睨みつけ、「二度と近づくな」とだけ言って、森の奥に消えていった。俺は震える足で集落に戻り、民宿に逃げ込んだ。翌朝、荷物をまとめ、すぐにその集落を後にした。二度と戻るつもりはなかった。
それから数年、俺はあの夜のことを誰にも話していない。だが、時折、夢に見る。あの穴が、俺を呼んでいるような夢だ。そして、最近気づいたことがある。あの廃墟で見た円形の模様が、なぜか俺の腕に薄く浮かんでいる。掻いても消えない。鏡で見るたび、あの男の虚ろな笑みが脳裏に蘇る。
今でも思う。あの穴の向こうには、何があったのか。俺は、本当に「こちら側」に戻ってこられたのか?