数年前、夏の終わり頃のことだ。長崎県の山深い集落に、大学の民俗学研究会に所属する四人の学生が訪れていた。メンバーは、リーダーで好奇心旺盛な拓也、霊感が強いと自称する美咲、冷静沈着な分析派の健太、そして怖い話が苦手なのに無理やり連れてこられた陽菜だ。彼らの目的は、集落の外れにある古い神社の調査だった。その神社は、地元では「行ってはいけない場所」として知られ、数十年前に神主が失踪して以来、廃墟と化していた。
集落に着いた初日、学生たちは地元の古老から話を聞いた。「あの神社はな、昔は村の守り神を祀っとった。けど、ある晩、神主が鈴を鳴らし続けながら森に消えて、それ以来、誰も近づかんよ。夜に鈴の音が聞こえるって話もある」と、老人は目を細めて語った。拓也は興奮気味にメモを取り、美咲は「何か感じる…」とつぶやいた。一方、陽菜は「早く帰りたい」と顔を青くしていた。
翌日、昼過ぎに四人は神社に向かった。山道を登り、鬱蒼とした杉林を抜けると、苔むした鳥居が現れた。鳥居の先には、朽ちかけた社殿と、錆びた鈴がぶら下がる注連縄があった。陽菜は「ここ、ほんと嫌な感じ…」と震えながらつぶやいたが、拓也は「こんな機会滅多にないぞ!」と先へ進んだ。社殿の中は埃とカビの匂いが充満し、床には古い供物らしきものが散乱していた。美咲が「何かいるよ…この部屋の奥に」と囁くと、健太が「気のせいだろ。証拠がない」と一蹴した。
調査を進める中、陽菜が社殿の裏で小さな祠を見つけた。祠の前には、割れた土器と、なぜか新しい花が供えてあった。「誰かが最近来たの?」と陽菜が怯えた声で言うと、拓也は「地元の誰かが供えたんだろ」と軽く流した。しかし、美咲は祠の前に立つと、急に顔をこわばらせ、「ここ、絶対ヤバい。早く離れよう」と叫んだ。その瞬間、どこからともなくチリン…と鈴の音が響いた。陽菜が悲鳴を上げ、健太さえも「何だ、これ…」と周囲を見回した。音は一瞬で消えたが、四人の間に緊張が走った。
日が傾き始め、拓也は「もう少し調べてから帰ろう」と提案したが、陽菜は「嫌だ! 今すぐ帰る!」と泣きそうな声で訴えた。仕方なく四人は来た道を戻り始めたが、陽菜が急に立ち止まった。「ねえ、私の影…おかしいよ」と震える指で地面を指した。陽菜の影は確かに不自然で、彼女の動きと微妙にずれて揺れているように見えた。美咲が「それ、ついてきてるよ!」と叫ぶと、健太が「落ち着け、ただの錯覚だ」と声を荒げた。しかし、拓也も陽菜の影を見て言葉を失った。影はまるで別の何かが陽菜の後ろに立っているかのように、歪んでいた。
その夜、集落の民宿に戻った四人は、気まずい空気の中で夕食を済ませた。陽菜は部屋の隅で毛布をかぶり、美咲は「私、あの神社に何かいるって確信した」と繰り返した。健太は「科学的根拠がない」と反論したが、どこか自信なさげだった。深夜、拓也がトイレに起きたとき、窓の外からチリン…チリン…と鈴の音が聞こえた。凍りついた彼が窓に近づくと、暗闇の中で白い着物の女が立っているのが見えた。女は顔を上げ、目が合った瞬間、拓也の頭の中に直接「返せ…」という声が響いた。彼は悲鳴を上げて部屋に飛び戻り、皆を叩き起こした。
翌朝、四人は急いで集落を後にしようとしたが、陽菜の様子がおかしかった。彼女はぼんやりと空を見つめ、「鈴の音が頭から離れない」とつぶやいた。美咲は「何か憑かれたんだよ! 早くお祓いしないと!」と焦り、健太は「そんな非科学的な」と言いながらも、陽菜の異変に動揺を隠せなかった。集落を出る前、古老に相談すると、彼は重い口調で言った。「あの神社はな、昔、村の娘を生贄にして神を鎮めた場所だ。神主が失踪したのも、その呪いに関係があるかもしれん。鈴の音を聞いた者は、必ず何かを持ってかれる」
帰りの車中、陽菜は突然叫び声を上げ、シートに爪を立てた。「見える! 私の後ろにいる!」と泣き叫ぶ彼女を、美咲が必死に抱きしめた。拓也はハンドルを握りながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。健太は黙って窓の外を見ていたが、彼の手は震えていた。その後、陽菜は大学を休学し、実家で静養することになった。彼女は時折、誰もいない部屋で鈴の音を聞くと言い、夜中に突然叫び出すことがあったという。
数ヶ月後、拓也は再びあの神社について調べ始めた。すると、驚くべき事実が判明した。陽菜が祠で見つけた新しい花は、彼女がその数日前に大学の近くで摘んだものと一致していたのだ。陽菜は神社に行く前、何かに導かれるようにその花を摘み、持っていたことを思い出したという。まるで、彼女自身が無意識に供物を捧げに行ったかのように。
今もあの神社は、杉林の奥で静かに佇んでいる。地元の者は決して近づかず、夜になると鈴の音が聞こえるという噂は絶えない。拓也はあの出来事以来、霊的なものに対する好奇心を失い、民俗学の道を諦めた。美咲は霊感を磨くと言って山にこもりがちになり、健太は「あれは錯覚だった」と言い聞かせるように科学の道に没頭した。そして陽菜は、鈴の音と共に生き続けている。彼女の影は、今も時折、奇妙に揺れるという。
あなたがもし、長崎の山奥を訪れることがあれば、鳥居の先に続く薄暗い道を見つけるかもしれない。その時、チリン…と鈴の音が聞こえたら、決して振り返ってはいけない。なぜなら、あなたの影が、すでにあなたのものではなくなっているかもしれないからだ。