30年前、俺はまだ高校生だった。
山梨県の山奥にある小さな村に、親戚の家を訪ねて夏休みを過ごしに行ったんだ。
その村は、鬱蒼とした森に囲まれ、昼間でもどこか薄暗い雰囲気だった。
村の子供たちと一緒に川で遊んだり、山で虫を捕まえたりして、最初は楽しく過ごしていた。
でも、ある日、村の少し外れにある古い神社についての噂を耳にした。
「夜にあの神社に行くと、赤い目の怪物に襲われるぞ」
そう言って、村の子供たちは目を丸くして俺を見た。
俺は都会育ちで、こういう田舎の怪談なんて信じていなかった。
「そんなの、ただの作り話だろ」と笑い飛ばしたけど、子供たちの目は本気だった。
特に、いつも元気なリーダー格の男の子が、急に声を潜めてこう言った。
「あの神社は、昔、村の人が何か悪いものを封じた場所なんだ。絶対に行っちゃ駄目だよ」
その夜、俺はなぜか落ち着かなかった。
親戚の家で寝転がりながら、昼間の話が頭を離れなかった。
赤い目の怪物、封じられた何か…。
子供の作り話だと思う一方で、好奇心がむくむくと湧いてきた。
「ちょっと見に行ってみるか」
そう思った瞬間、俺は布団を抜け出し、懐中電灯とジャケットを手に家を飛び出した。
村の外れにある神社は、森の奥にひっそりと佇んでいた。
月明かりが木々の間から漏れ、地面に不気味な影を落としている。
神社は古びていて、鳥居は苔むし、拝殿の屋根には穴が開いていた。
周囲は静まり返り、虫の声すら聞こえない。
「何だ、ただのボロ神社じゃん」
俺は自分を奮い立たせるように呟き、境内に入った。
だが、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
何かが…見ている。
振り返っても誰もいない。
ただ、暗闇の向こう、木々の間に何か光るものが見えた気がした。
赤い光。
一瞬だったが、確かにそこにあった。
心臓がドクンと高鳴り、懐中電灯を握る手が震えた。
「気のせいだろ…」
そう自分に言い聞かせ、拝殿の方へ進んだ。
拝殿の中は、さらに異様な空気が漂っていた。
床には埃が積もり、祭壇には朽ちた縄や札が散乱している。
そして、祭壇の奥、暗闇の中に、何か大きなものがあった。
石の塊のような…いや、像か?
懐中電灯を向けると、それは異形の姿をしていた。
獣のような体に、長い腕、そして顔の部分には目らしき穴が二つ。
その穴は、真っ暗で、まるで底なしの闇を湛えているようだった。
その時、背後でガサッと音がした。
振り返ると、誰もいない。
だが、音は続く。
ガサガサ…ザザッ…。
まるで何か重いものが地面を引きずるような音。
俺は慌てて懐中電灯を振り回したが、光が届く範囲には何もなかった。
なのに、音はどんどん近づいてくる。
そして、突然、懐中電灯がチカチカと点滅し始めた。
「くそっ、電池か!?」
焦りながら叩いてみるが、状況は悪くなる一方だ。
次の瞬間、ライトが完全に消えた。
真っ暗闇の中、俺の耳に低いうなり声が響いた。
「グルルル…」
それは人間の声じゃなかった。
獣とも違う、もっと深い、底知れぬ恐怖を孕んだ音。
俺は凍りついたように動けなかった。
暗闇の中で、赤い目が二つ、ゆっくりと浮かび上がった。
それは、さっきの石像の目の位置と同じだった。
だが、今、その目は生きているように俺を睨みつけていた。
「ヒッ…!」
喉から小さな悲鳴が漏れた。
赤い目は動かない。
ただ、じっと俺を見つめている。
いや、違う。
近づいてくる。
ゆっくり、だが確実に。
足音はしない。
なのに、赤い目がどんどん大きくなる。
俺は後ずさりしようとしたが、足がもつれてその場に尻もちをついた。
「グルル…ガアアア!」
突然、赤い目の怪物が咆哮を上げた。
その声は、頭の中を直接揺さぶるような衝撃だった。
俺は這うようにして逃げ出した。
枝が顔を擦り、足が岩に引っかかりながら、ただひたすら走った。
背後では、木々が折れるような音、地面を抉るような音が追いかけてくる。
「助けて…誰か…!」
叫びながら走ったが、村まではまだ遠い。
どれだけ走ったか分からない。
気づいた時、俺は森の外、村の入り口近くの道に倒れ込んでいた。
息が上がって、喉が焼けるように痛かった。
背後を振り返ったが、赤い目はもう見えなかった。
ただ、遠くの森の奥から、低い唸り声がまだ聞こえていた。
翌朝、親戚の家に戻った俺は、ひどく叱られた。
だが、昨夜のことを話しても、誰も信じてくれなかった。
村の子供たちに聞いてみたが、彼らは目を逸らし、「だから行くなと言っただろ」とだけ呟いた。
結局、俺はその夏休みの残りを、親戚の家で大人しく過ごした。
だが、夜になるたび、あの赤い目が夢に出てきた。
それから30年。
俺はもうあの村には行っていない。
だが、最近、ネットで奇妙な話を目にした。
山梨の山奥で、廃墟となった神社近くで、行方不明者が続出しているという。
地元の猟師が、森の奥で赤い光を見たと証言していた。
あの夜の恐怖が、急に蘇ってきた。
あれは、ただの幻だったのか。
それとも、本当に何か…あの神社に封じられていたものが、目覚めてしまったのか。
今でも、暗闇の中で目を閉じると、あの赤い目が浮かぶことがある。
そして、耳の奥で、低い唸り声が響く。
「グルルル…」