夜の市街地に響く足音

実話風

数年前、岡山県のとある市街地に住む私の身に起こった、忘れられない恐怖体験がある。あの夜のことを思い出すたびに、背筋に冷たいものが走る。今でもあの音を耳にすると、思わず周囲を見回してしまうのだ。

私は当時、岡山市内の小さなアパートに一人暮らしをしていた。仕事は市内のオフィスで、残業が重なることも多かった。事件が起きたのは、秋も深まる10月の終わり頃。肌寒い夜だった。残業を終え、終電間際の電車で帰宅した私は、駅から自宅までの道を急いで歩いていた。

岡山市の中心部は、夜でもそれなりに人通りがある。飲食店のネオンが灯り、酔っ払いの笑い声や車のクラクションが響く、賑やかな雰囲気だ。私のアパートは駅から徒歩15分ほどの場所にあり、繁華街を抜けて少し静かな住宅街に入る道のりを毎日歩いていた。この夜も、いつものようにイヤホンで音楽を聴きながら、疲れた体を引きずるように歩いていた。

繁華街を抜け、街灯の数が減り始めると、急に空気が変わった気がした。音楽のビートに合わせて歩いていた私の足が、ふと止まった。背後で、かすかな音が聞こえたのだ。カツ、カツ、という硬い靴の音。誰かが歩いているのだろうと最初は思った。だが、その音は妙に規則的で、私の歩くリズムとぴったり重なっている。まるで、私の足音に合わせて歩いているかのように。

イヤホンを外し、振り返った。だが、そこには誰もいない。薄暗い街灯の下、コンクリートの歩道がどこまでも続くだけだ。気のせいか、と思い直し、再び歩き始めた。すると、また聞こえた。カツ、カツ。私の歩調に合わせた音が、すぐ背後から響く。今度は立ち止まらず、歩きながら肩越しに後ろを見た。やっぱり誰もいない。なのに、音は止まない。心臓がドクドクと鳴り始め、冷や汗が背中を伝った。

「落ち着け、ただのエコーだ」と自分に言い聞かせ、歩く速度を上げた。だが、音もまた速くなった。カツカツカツ。まるで追いかけてくるように。私は思わず走り出した。住宅街の細い路地に入り、アパートの玄関が見える距離まで来たとき、ようやく音が止んだ。息を切らしながら玄関の鍵を開け、部屋に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、ホッと胸を撫で下ろした。だが、その安心は長く続かなかった。

部屋の電気をつけ、ソファに腰を下ろしたとき、窓の外からまたあの音が聞こえた。カツ、カツ。ゆっくり、だが確実に近づいてくる。私は凍りついた。私のアパートは2階だ。外に階段はない。なのに、音は明らかに私の部屋のすぐ下で響いている。窓に近づく勇気はなかった。カーテンを閉め、電気を消して息を殺した。音はしばらく続き、やがて遠ざかるように消えていった。

その夜は一睡もできなかった。翌朝、恐る恐る窓を開け、外を見た。だが、特別な痕跡は何もなかった。ただ、いつもと変わらない住宅街が広がっているだけ。疲れからくる幻聴だったのだろうか。それとも、誰かが私をからかっただけなのか。自分を納得させるために、そう考えることにした。

だが、それで終わりではなかった。それから数日後の夜、また同じことが起きた。帰宅途中、背後でカツ、カツ、という足音が聞こえたのだ。今度はイヤホンをつけていなかった。音ははっきりと私の耳に届いた。振り返っても誰もいない。走っても追いかけてくる。私はパニックになり、近くのコンビニに駆け込んだ。店員に事情を話そうかとも思ったが、こんな話を信じてもらえるはずがない。コンビニの明るい店内でしばらく時間を潰し、足音が聞こえなくなってから帰宅した。

この奇妙な出来事は、その後も断続的に続いた。いつも夜、いつも私が一人で歩いているとき。足音はまるで私の影のように付きまとい、決して姿を見せなかった。友人には「ストーカーじゃないか」と心配されたが、警察に相談するほどの証拠はない。次第に私は夜の外出を避けるようになった。仕事が終わればタクシーで帰るか、友人に迎えに来てもらう。だが、それでも完全に逃れられるわけではなかった。

ある夜、友人と食事を終え、彼女の車でアパートまで送ってもらった。友人が「大丈夫?」と心配そうに聞いてきたので、「最近、変なことがあってさ」と軽く話した。彼女は冗談めかして「それ、幽霊じゃない?」と笑ったが、私は笑えなかった。車を降り、アパートの階段を上りながら、ふと嫌な予感がした。部屋に入り、ドアを閉めた瞬間、またあの音が聞こえた。カツ、カツ。今回は部屋の中からだ。

私は悲鳴を上げそうになった。音は廊下の奥、寝室の方から響いてくる。電気をつけ、震える手で包丁を握った。意を決して寝室のドアを開けたが、そこには何もない。ただ、開け放たれた窓から冷たい風が吹き込んでいた。私は窓を閉め、鍵を確認した。だが、落ち着く間もなく、背後で再び音がした。カツ、カツ。今度はリビングの方から。私は包丁を握りしめ、リビングに戻った。だが、そこにも誰もいない。音はまるで私を嘲笑うように、部屋中を移動しながら響き続けた。

その夜を境に、私はアパートを引き払った。新しい住まいは市街地から少し離れた場所にした。足音はそれ以来聞こえていない。だが、あの体験は私の心に深い傷を残した。今でも、夜道を歩くとき、ふと背後を振り返ってしまう。あの足音がまた聞こえるのではないかと、恐怖がよみがえるのだ。

最近、岡山の地元の掲示板で似たような話を目にした。夜の市街地で、誰かの足音に追いかけられたという書き込みだ。誰もいないのに、音だけが響く。私の体験とあまりにも似ていた。私は今でも思う。あの足音は、ただの幻聴だったのか。それとも、私に何かを伝えようとしていたのか。真相はわからない。だが、一つだけ確かなことがある。あの音は、私の人生に永遠に刻み込まれた恐怖の記憶なのだ。

(完)

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