凍てつく夜の異界の囁き

実話風

北海道の冬は、まるで世界の果てに迷い込んだかのような静寂に包まれる。30年前、1995年の冬、私がまだ高校生だった頃、道東の小さな町に住んでいた。そこは冬になると雪に閉ざされ、夜の闇が一層深くなる場所だった。私の家は町の外れ、森に隣接した古い一軒家で、祖父母から受け継いだものだった。家族は私と両親、そして妹の4人。平凡な暮らしだったが、あの夜、すべてが変わった。

その日は12月の末、クリスマスが過ぎ、町は新年の準備で静かだった。外は氷点下20度近くまで下がり、窓の外は雪が音もなく積もっていた。私はリビングで受験勉強をしていたが、なぜか集中できなかった。妙な胸騒ぎがしていたのだ。妹は自室で寝ており、両親は町の集まりに出かけていた。家には私一人だった。

時計が深夜0時を回った頃、突然、家の外から奇妙な音が聞こえた。カサカサ、という乾いた音。まるで誰かが雪の上を歩くような、だが、足音にしては軽すぎる。最初は風が枝を揺らす音かと思ったが、音は規則的で、徐々に近づいてくる。私は窓に近づき、カーテンをそっと開けた。外は真っ暗で、街灯の薄い光が雪に反射するだけ。だが、その光の中に、動く影があった。人の形をしていたが、どこか歪んでいる。背が高く、異様に細いシルエット。首が不自然に傾いているように見えた。

心臓が跳ね上がった。私はすぐにカーテンを閉め、電気を消して息を潜めた。音は家の周りをぐるりと回るように続き、時折、窓ガラスを軽く叩く音が混じる。トントン。トントン。まるで中を覗こうとしているかのように。恐怖で体が硬直した。携帯電話などない時代、助けを呼ぶ手段はなかった。妹を起こすべきか迷ったが、彼女を怖がらせるのが嫌で動けなかった。

どれくらい時間が経っただろう。音がピタリと止んだ。静寂が戻り、私はようやく息をついた。だが、その瞬間、リビングの奥、廊下の暗闇から別の音が聞こえた。ギィ…ギィ…。木の床が軋む音。家の中だ。誰かがいる。私は震える手で近くの懐中電灯を掴み、音のする方へ光を向けた。そこには誰もいなかった。だが、廊下の突き当たり、妹の部屋のドアがわずかに開いているのが見えた。閉めていたはずなのに。

私は意を決して妹の部屋に向かった。ドアをゆっくり開けると、妹はベッドでぐっすり寝ていた。安心したのも束の間、部屋の窓に目をやると、凍りついた。窓の外、雪に埋もれた庭に、あの影が立っていた。ガラス越しにこちらを見ている。顔はなかった。黒い穴のようなものが口の位置にあり、かすかに白い息のようなものが漏れていた。影は動かず、ただ私を見つめていた。

私は叫び声を上げそうになったが、妹を起こさないよう必死に堪えた。影はゆっくりと手を上げ、ガラスに触れた。すると、ガラスに霜が広がり、異様な模様が浮かび上がった。それは文字のようだったが、読めない。まるでこの世のものではない言語。次の瞬間、影は消えた。まるで雪の中に溶けるように。

私は妹を抱きかかえ、リビングに戻り、朝まで一睡もできなかった。両親が帰宅したのは翌朝だったが、私は恐怖で何も話せなかった。あの影が何だったのか、なぜ私の家に来たのか、わからない。ただ、翌日、庭を調べると、窓の外に足跡はなかった。雪はきれいに積もったままで、何の痕跡もなかった。

それから数週間、私は毎夜、家の周りでカサカサという音を聞いた。影は二度と現れなかったが、夜になるたびに恐怖が蘇った。春が来て雪が解けると、音はぴたりと止んだ。だが、あの冬の出来事は私の心に深い傷を残した。家族には話さなかった。話したところで信じてもらえないと思ったからだ。

数年後、私は町を出て都市部で暮らすようになった。だが、時折、冬の夜に窓の外を見ると、あの影が立っている気がしてならない。実家は今も残っているが、妹も両親もあの夜のことを知らない。私は二度とあの家で冬を過ごす気はない。あの影がまだどこかで私を待っている気がしてならないのだ。

最近、町の古老から聞いた話がある。かつてその森には、異世界への「門」があったという。冬の最も寒い夜、雪の深い場所に現れる門。そこを通った者は二度と戻れず、門を守る「もの」が、迷い人を誘うのだという。私の見た影は、その「もの」だったのだろうか。あの夜、もし私が窓を開けていたら、もし外に出ていたら、私は今ここにいないかもしれない。

今でも、雪の降る夜には、あの音が聞こえる気がする。カサカサ。トントン。そして、凍てつく闇の中で、誰かが囁く声がする。私の名前を呼ぶ、冷たい声が。

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