徳島の海辺に、鳴門の渦潮で知られる小さな漁村があった。村の外れに、古びた一軒家に住む老女がいた。村人たちは彼女を「渦の婆さん」と呼び、近づかないようにしていた。彼女の家は、夜になると窓から奇妙な光が漏れ、時折、人の声とも獣の唸りともつかない音が響いたという。
ある夏の夜、村に住む若い漁師が、仲間との賭けでその家に近づくことになった。彼は、酒の勢いもあって、怖いものなどないと笑いながら、夜の浜辺を歩いて婆さんの家に向かった。月明かりが海面を照らし、遠くで渦潮がゴウゴウと唸る音が響いていた。
家に近づくと、噂通りの光が窓から漏れていた。薄汚れた障子越しに、揺らめく影が動いているのが見えた。漁師は足を止め、胸の鼓動が速くなるのを感じた。だが、仲間たちに見栄を張るため、意を決して家の縁側に近づいた。すると、突然、家の奥から女の声が聞こえてきた。
「お前も…渦に呼ばれたか…」
声は低く、まるで海の底から響くようだった。漁師は凍りつき、動けなくなった。声は続いた。
「見ずにはおれん…見ずには…」
その瞬間、家の障子がガタリと揺れ、影が一気に近づいてきた。漁師は悲鳴を上げ、転がるように逃げ出した。背後で、笑い声とも泣き声ともつかない音が追いかけてくるようだった。彼は浜辺を走り、村に戻るまで振り返らなかった。
翌朝、漁師は村の広場で、顔を真っ青にしてその話をした。仲間たちは笑いものにしたが、村の古老は顔を曇らせ、こう言った。
「渦の婆さんは、昔、鳴門の渦に子を奪われた女だ。以来、渦に魂を縛られ、夜な夜な渦の声を聞く。家に近づく者は、渦の呪いに引きずられる…」
漁師はそれ以来、海に出ることをやめ、村を離れた。だが、彼が去った後も、婆さんの家からは光と声が漏れ続け、村人たちは決して近づかなかった。
数年後、村に新しい家族が引っ越してきた。都会から来た若い夫婦と、好奇心旺盛な少年だった。少年は、村の子供たちから「渦の婆さん」の話を聞き、興味をそそられた。ある日、少年は友達と一緒に、こっそり婆さんの家に忍び込む計画を立てた。夜、親の目を盗んで家を抜け出し、懐中電灯を手に浜辺を進んだ。
家の周りは静まり返り、渦潮の音だけが不気味に響いていた。少年たちは、朽ちかけた縁側に忍び寄り、障子をそっと開けた。中は埃っぽく、畳は腐りかけていた。だが、奥の部屋から、微かな光が漏れている。少年は友達を置いて、好奇心に駆られ、その光の方へ近づいた。
部屋に入ると、そこには古い鏡が置かれていた。鏡の表面は曇り、まるで水面のように揺れている。少年が鏡を覗き込むと、突然、鏡の中から女の顔が浮かんだ。目は真っ黒で、口元が不気味に歪んでいる。少年は叫び声を上げたが、声は喉に詰まった。女の声が、頭の中に直接響いてきた。
「お前も見るんだ…渦の底を…」
次の瞬間、少年の視界は真っ暗になり、冷たい水に飲み込まれる感覚に襲われた。耳元で、渦潮の轟音が響き、無数の手が彼を引きずり込む。少年は必死にもがいたが、身体は動かず、ただ落ちていくだけだった。
翌朝、少年は浜辺で意識を失っているところを村人に発見された。顔は恐怖で歪み、髪は海水で濡れていた。少年は目を覚ますと、泣きながら「渦の底に…女がいた…」と繰り返した。両親は慌てて村を出ようとしたが、少年はその後も夜中に叫び声を上げ、鏡を見るたびに怯えるようになった。
村人たちは、少年が「渦の呪い」に取り憑かれたと噂した。婆さんの家はその後も放置され、夜になると光と声が響き続けた。村の子供たちは、浜辺で遊ぶとき、決してあの家を見ないように言い聞かせられた。だが、時折、好奇心に負けた者が家に近づき、そして誰もが同じことを言う。
「渦の底に、女がいる…」
今も、鳴門の渦潮の近くでは、夜になると奇妙な声が聞こえるという。それは、風の音か、波の音か、それとも、渦の底に囚われた魂の叫びなのか。誰も確かめようとはしない。ただ、村人たちはこう警告する。
「渦の婆さんの家には、決して近づくな。さもないと、渦に引き込まれるぞ…」
そして、夜の海辺では、遠くで光る家と、渦潮の唸りが、今日も静かに響き合っている。