群馬県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む人々は、昔からある言い伝えを守り続けていた。「夜道で子守唄が聞こえたら、決して振り返るな」。その理由を知る者はいなかったが、誰もがその掟を破ることはなかった。
今から10年ほど前の夏、私は大学の民俗学研究のためにその集落を訪れた。古い家屋が並ぶ集落は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。住民たちはよそ者である私を警戒しているようだったが、研究への協力を渋々了承してくれた。
ある晩、私は集落の外れにある小さな社で、古老から話を聞いていた。木々の間を抜ける風が不気味にうなり、時折遠くで鳥の鳴き声が響く。古老は目を細めながら、子守唄の言い伝えについて語り始めた。「あれは、死んだ母親が我が子を連れ去ろうとする声だよ。振り返れば、その子守唄に魂を縛られる」。私は半信半疑だったが、その不気味な口調に背筋が冷たくなった。
話を終えた後、私は宿に戻るため、細い山道を歩いていた。日はすでに沈み、懐中電灯の光だけが頼りだった。すると、どこからともなく、かすかな歌声が聞こえてきた。女の声だ。低く、優しく、まるで子をあやすような子守唄。それは風に乗り、耳元でささやくように響いてくる。私は言い伝えを思い出し、振り返るまいと必死に足を進めた。しかし、歌声は次第に大きくなり、私の名前を呼ぶような錯覚さえ覚えた。
心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。道の先に宿の明かりが見えた瞬間、歌声がぴたりと止んだ。私は安堵して振り返りそうになったが、古老の言葉が頭をよぎり、慌てて目を前に戻した。その時、背後でかすかな笑い声がした気がした。ぞっとした私は宿に駆け込み、ドアを固く閉めた。
翌朝、宿の主人が不思議そうな顔で私に尋ねた。「昨夜、何か変なものを見なかったかね?」。私は子守唄のことを話したが、主人は首をかしげるばかりだった。「この辺でそんな歌を歌う人はいないよ。ましてや夜中にね」。その言葉に、私は一層不安を覚えた。
数日後、私は集落の古い資料を調べているうちに、ある記録を見つけた。それは数十年前、この集落で起きた悲劇の話だった。ある母親が我が子を連れて山に入り、二度と戻らなかった。村人たちはその母親が子を道連れに死に、以来、子守唄を歌いながら子を探していると噂していた。記録には、その母親が最後に目撃された場所が、私が話を聞いた社のすぐ近くであると書かれていた。
その夜、再び子守唄が聞こえた。今度は宿の窓の外から、はっきりと。目を閉じても、耳を塞いでも、その声は頭の中に直接響いてくるようだった。私は恐怖に耐えきれず、懐中電灯を手に外へ飛び出した。すると、家の裏手にある小さな墓標の前で、白い影が揺れているのが見えた。それは女の姿だった。長い髪が風に揺れ、腕には何かを抱いているように見えた。子守唄は彼女の口から発せられていた。
私は凍りついたように立ち尽くし、彼女を見つめた。すると、彼女がゆっくりとこちらを振り向いた。顔は闇に隠れて見えなかったが、目だけが異様に光っているように感じた。その瞬間、子守唄が私の名前を呼び始めた。「おいで、おいで…」。声は甘く、引き込まれるようだった。私は必死に目を逸らし、宿へと逃げ帰った。
翌日、私は集落を離れることにした。荷物をまとめていると、宿の主人が一枚の古い写真を持ってやってきた。「これ、見てみな」。それは数十年前に撮られたものらしく、若い女と子どもの姿が写っていた。女の顔は、昨夜の白い影とどこか似ている気がした。主人は言った。「この子は生き残ったんだが、母親は山で死んだって話だよ」。私は写真を手に震えが止まらなかった。
集落を後にするバスの中で、私は窓の外を見ていた。山々が遠ざかる中、木々の間から一瞬、白い影がこちらを見ているような気がした。耳元で子守唄が再び響き始めた。私は目を閉じ、それを振り払うように祈った。しかし、その後も何年も、静かな夜になると、あの子守唄が聞こえてくるのだ。私の名前を呼びながら、どこまでも追いかけてくるように。
今でも思う。あの時、振り返っていたらどうなっていたのだろうか。魂を縛られ、山を彷徨う亡魂となっていたのだろうか。それとも、あの母親と子のように、私も誰かを探し続けていたのだろうか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あの子守唄が私の心に刻み込まれた恐怖は、決して消えることがないということだ。