湖底から響く異形の囁き

SFホラー

滋賀県の北部に広がる静かな湖のほとりで、今から10年ほど前、私は大学の研究仲間と共にフィールドワークに訪れていた。

その日は夏の終わり、薄曇りの空の下で湖面はまるで鏡のように静まり返っていた。私たちは地質学の調査のために湖周辺の土壌サンプルを採取しつつ、時折、地元の人々が語る奇妙な言い伝えについて笑いものにしていた。「湖の底には昔、異様な生き物が封じられた」「夜になると水面が不気味に揺れる」——そんな話だ。科学者を目指す私たちには、ただの迷信にしか聞こえなかった。

夕暮れが近づく頃、仲間のひとりが湖畔の岩場で妙なものを見つけた。黒ずんだ金属のような質感の欠片で、手に持つと異様に冷たく、表面には理解不能な模様が刻まれていた。「人工物っぽいけど、錆びてないのが変だな」と彼が呟いた瞬間、湖面に小さな波紋が広がった。風もないのに、だ。私たちは顔を見合わせ、不思議に思いながらもその欠片をキャンプ地に持ち帰った。

夜が更けるにつれ、空気が重苦しくなってきた。テントの中でデータを整理していると、外からかすかな音が聞こえてきた。水が滴るような、ぽたり、ぽたり、という音。最初は雨かと思ったが、空は星すら見えるほど晴れていた。仲間の一人が「湖の方からだ」と言い、懐中電灯を手に外へ出た。私も後を追うと、湖畔に立った彼が硬直しているのが見えた。

「どうした?」と声をかけると、彼は震える手で湖を指さした。そこには、暗い水面に浮かぶ白い影があった。人の形をしているように見えたが、頭部が異様に長く、四肢が不自然に伸びている。影はゆっくりとこちらに近づいてくるようだった。私は恐怖で足がすくみ、彼の手を掴んでテントに戻ろうとした。だがその瞬間、耳をつんざくような低く歪んだ音が湖全体から響き渡った。

それは声だった。言葉ではない、理解を超えた異形の囁き。頭の中を直接かき乱すような感覚に襲われ、私は膝をついた。仲間の一人が叫び声を上げて逃げ出し、もう一人は呆然と立ち尽くしていた。テントに戻った私たちは、ドアを固く閉め、互いに息を潜めた。だが、囁きは止まなかった。テントの外で何かが這うような音が聞こえ、布地に影が映り込んだ。細長い腕のようなものが、ゆっくりとテントを撫でるように動いていた。

夜が明けるまで、私たちは一睡もできなかった。囁きはやがて遠ざかり、朝日が昇ると同時に静寂が戻った。恐る恐る外に出ると、湖畔には何もなかった。ただ、あの金属の欠片だけが、テントの入り口に置かれていた。私たちは慌てて荷物をまとめ、その場を去った。

それから数日後、調査データを大学で解析していると、奇妙な事実が判明した。あの欠片は既存のどの金属とも異なる組成を持ち、地球上の技術では作れないものだった。さらに、湖底の地質調査の記録を遡ると、数十年前に「異常な振動と電磁波」を観測した報告が残されていた。地元の人々の言い伝えが、ただの迷信ではない可能性が浮上した瞬間だった。

あれから10年。私はもうあの湖には近づかない。あの夜の異形の囁きは、今でも夢の中で聞こえることがある。科学では解明できない何かが、あの湖底に眠っている。そしてそれは、私たちが触れてはいけないものだったのだ。

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