黄泉からの囁きが響き合い

怪談

それは明治の頃、東京の片隅で起きた出来事である。

ある夏の夕暮れ、貧しい下町に住む少女がいた。彼女は母親と二人暮らしで、病弱な母を支えるため、昼夜を問わず働きに出ていた。少女の名はここでは明かさないが、その瞳にはいつも深い疲れが宿っていた。

ある日、母の容態が急に悪化した。医者を呼ぶ金もなく、少女はただ母の手を握り、祈ることしかできなかった。夜が更け、母の息が細くなると、部屋の隅から奇妙な音が聞こえ始めた。カタカタ、カタカタ。それはまるで古い戸板が風に揺れるような音だったが、その晩は無風だった。

少女が音のする方を見ると、薄暗い部屋の片隅に、ぼんやりとした人影が立っているのが見えた。最初は近所の誰かが訪ねてきたのかと思ったが、その影は異様に細長く、顔が判別できないほどにぼやけていた。少女の背筋に冷たいものが走った。

「誰……?」

声をかけた瞬間、影がスッと動いた。次の瞬間には母の寝床のすぐ横に立っていた。少女は悲鳴を上げそうになったが、母を驚かせまいと唇を噛み締めた。影は母の方に顔を近づけ、何かを囁き始めた。その声は低く、聞き取れないほどかすかだったが、まるで水底から響くような不気味さがあった。

翌朝、母は息を引き取った。少女は泣きながら母の手を握り続けていたが、ふと気づくと、部屋の中が異様に静かだった。あの奇妙な音も、影の気配も消えていた。葬儀を終え、少女は母の遺品を整理していると、古い木箱の中から一枚の紙切れを見つけた。そこには震えるような文字で「黄泉の使者が来る」とだけ書かれていた。

それから数日後の夜、少女は夢を見た。暗い川のほとりに立ち、向こう岸から母が手を振っている。だが、母の顔は笑っておらず、どこか怯えているように見えた。川の中をよく見ると、無数の白い手が水面から伸び、母の方へ近づいていく。少女が助けようと叫んだ瞬間、目が覚めた。

汗にまみれて起き上がると、部屋の隅でまたあの音が聞こえた。カタカタ、カタカタ。今度ははっきりと、影がそこに立っていた。少女の心臓が激しく鼓動し、逃げようとしたが足が動かない。影がゆっくりと近づいてくると、その顔が一瞬だけ見えた。そこには目も鼻も口もない、真っ白な面があった。

「母を返して……!」

少女が叫んだ瞬間、影が消え、部屋は再び静寂に包まれた。だが、その夜から少女の周りで奇妙なことが起こり始めた。近所の者たちが、彼女の家の前を通るたびに、どこからともなく囁き声が聞こえると言うのだ。それはまるで、死者が生者に何かを訴えているようだった。

月日が経ち、少女は次第にやつれていった。彼女は誰とも口をきかなくなり、ただ母の墓の前で過ごすようになった。ある嵐の夜、近隣の住民が彼女の家を訪ねると、彼女は忽然と姿を消していた。家の中には、彼女が使っていた布団と、床に散らばった紙切れだけが残されていた。その紙には、同じく震える文字で「黄泉へ」と書かれていた。

それ以降、その下町では不思議な噂が広まった。嵐の夜になると、少女の住んでいたあたりから、かすかな囁き声が聞こえるという。ある者は、少女の霊が母を求めて彷徨っているのだと囁き、またある者は、黄泉の使者が再び誰かを連れ去りに来たのだと恐れた。

時折、通りすがりの者が、薄暗い路地で細長い影を見たと言う。その影は動かず、ただじっと立っているだけだったが、近づくと忽然と消えてしまう。そしてその夜、決まって誰かが病に倒れ、命を落とした。

少女の物語は、語り継がれるうちに少しずつ形を変えていった。だが一つだけ確かなことがある。東京のその片隅では、今もなお、黄泉からの囁きが響き合っているのだ。

そして、ある者は言う。もし夜道でカタカタという音を聞いたら、それは決して風のせいではない。目を閉じ、耳を塞ぎ、決して振り返ってはならない。なぜなら、そこにはあなたの知らない顔が、あなたを見つめているかもしれないから。

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