山間の小さな集落に、その噂はひっそりと根付いていた。明治の頃、村人たちは口々に囁き合った。山の奥、鬱蒼と茂る森の向こうに、夜な夜な聞こえてくる女の哭き声。誰もその正体を知らない。ただ、声が聞こえた夜は決まって何かが起こるのだと言われていた。家畜が死に、病が広がり、時には人が忽然と姿を消す。村人たちはそれを「山の祟り」と呼び、恐れおののきながらも、暮らしを続けるしかなかった。
ある夏の終わり、村に一人の旅人がやってきた。瘦せこけた体に煤けた着物を纏い、長い髪を無造作に束ねた男だった。村人たちはよそ者を警戒したが、彼は穏やかに笑い、ただの通りすがりだと語った。名乗ることもなく、村はずれの古い小屋に腰を落ち着けた。男は昼間は出歩かず、日が落ちるとどこかへ姿を消した。村の若者たちは好奇心に駆られ、彼の後をつけたが、森の入り口で気配が途絶え、誰も追うことはできなかった。
その夜、哭き声が響き渡った。いつもより近く、いつもより鋭く。村人たちは戸を閉ざし、息を潜めて朝を待った。だが翌朝、小屋を覗いた者たちが目にしたのは、血に染まった畳と、引きちぎられた着物の切れ端だけだった。旅人は消えていた。そして、その日から哭き声は止まなかった。毎夜、毎夜、村のどこかで女の声が響き、眠りを奪った。
村の古老が語った。数十年前、山奥で女が死んだのだと。村に嫁いできたばかりの若妻だったが、夫の浮気を知り、嫉妬に狂って我が子を手にかけ、自らも命を絶った。以来、彼女の魂が山を彷徨い、恨みを晴らす相手を探しているのだと。古老は目を細め、こう付け加えた。「あの旅人は、彼女を呼び戻したのかもしれん」。
数日後、村の若者の一人が森へ薪を取りに出かけたまま戻らなかった。捜索に向かった者たちが森の奥で見つけたのは、木々に絡みついた血まみれの髪と、地面に刻まれた爪痕だった。そこから漂う異臭に、誰もが顔を覆った。そしてその夜、哭き声は一層激しくなり、村全体を包み込んだ。まるで何かを訴えるように、まるで何かを呪うように。
村人たちは集まり、対策を話し合った。神主を呼んで祓いを頼む者、村を出るべきだと主張する者。だが、その最中、一人の娘がふらりと立ち上がり、虚空を見つめたまま呟いた。「あたし、あの声を聞いた。呼んでるよ、私を」。娘の目は虚ろで、まるで魂が抜けたようだった。母親が慌てて抱き寄せたが、娘の手は冷たく、脈さえ弱々しかった。翌朝、娘は寝床で息絶えていた。口からは血が流れ、顔には得体の知れない笑みが浮かんでいた。
それからというもの、村は混乱に陥った。次々と人が消え、病が蔓延し、家々には異様な気配が漂い始めた。夜になると、哭き声と共に窓の外に影が揺れ、家の周りを何者かが歩き回る音がした。ある者は、耐えきれず山へ向かい、二度と戻らなかった。またある者は、家族を残して逃げ出し、後に狂ったように村の名を叫びながら死んだと伝えられた。
やがて秋が深まり、村は静寂に包まれた。だがそれは安堵ではなく、死の静けさだった。生き残った数少ない村人たちは、互いに顔を見合わせることもなく、ただ茫然と日々を過ごした。そんなある夜、最後の若者が山へ向かった。彼は手に古びた刀を持ち、「これで終わらせてやる」と呟いた。誰も止めなかった。誰も止められなかった。
翌朝、村に残った者たちが耳にしたのは、もはや哭き声ではなかった。遠くから響く、けたたましい笑い声。森の奥で何かが弾けるように響き、風に乗って村へと届いた。それが最後の音だった。村はそれから人が住まなくなり、廃墟と化した。だが、旅人たちが語り継ぐ話がある。山間の荒れ果てた道を歩くとき、風の中に女の笑い声が混じる瞬間があるのだと。そしてその声を聞いた者は、二度と帰ってこないのだと。
村があった場所は、今も深い森に埋もれている。そこへ足を踏み入れる者は少なく、立ち入ったとしても、何か得体の知れない視線を感じて逃げ出すという。古老の言葉が正しければ、あの女の魂はまだ彷徨い続けているのだろう。そして、旅人が持ち込んだ何かが、彼女の怨念を永遠に解き放つ鍵となってしまったのかもしれない。